なくしたいなら教育や啓蒙によって差別心を矯正するしかない。 およそ素朴な差別心というのは「差異」に対する違和から発するんだろうと思う。侮蔑からくる差別も畏怖からくる差別も、ある域値を超えた「差異」からくるという点では変わらない。そして、その域値にはかなりの個人差がある。たとえば、限りなく域値が小さい人は、一般的な意味での差別は不可能である。何故なら、そもそもすべての人間に違和を感じるはずだからである。全員が差別対象ということになれば差別のしようがない。実は、この状態は域値が無限に大きいというのとほとんど同義である。そして、域値を大きくすることは、おそらく教育によって可能である。 域値をできる限り大きくしてやることで、否応なく差異を受け入れさせる。そう考えたとき、本来あるべき「みんな」の差異を必要以上に平板化したり隠蔽したりすることは、明らかに逆効果である。本当はまったく違うはずの「みんな」