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ブックマーク / qushanxin.hatenadiary.org (3)

  • 集団主義的な自己責任 - 狂童日報

    長らく「日人は集団主義」だと言われてきた。会社も学校も「個人化」しているといわれる現在、これが変わったのだろうか?繰り返すように、日の労働・経済政策に大きな発言力を持っている某社長は「過労死は自己管理の問題」とまで言い放っている。この発言は大きく非難されているが、今でもこの社長の社会的地位に全く影響が及んでいないように、非難の力は圧倒的に弱い。そう考えると、もう日的集団主義は死んでしまったのだろうか。 しかし、私のみるところ全く変わっていない。某社長など財界人の発言を聞いていると、いろいろ言っているが要するに「甘えて楽するんじゃない。もっと競争社会の中で苦労しろ」という以上のことを言っていないような気がする。つまり、「苦労して働いていないやつがいるなんてけしからん」というわけである。これが個人主義の社会だったら、人がどう働くかは個人の問題で良いも悪いもない。ヨーロッパで失業率が高い理

    集団主義的な自己責任 - 狂童日報
    Dryad
    Dryad 2007/03/04
    集団主義的なるものを激しく嫌悪している自分自身にさえ、こういうメンタリティが深く刻み込まれているのを自覚して嫌な気分になった。
  • 核武装論―議論はなくてもいい - 狂童日報

    核武装論が一段落したが、気になったのは「議論はあってもいいではないか」という意見がかなりあったことである。ネットで上多かったのは予想通りだが、新聞やテレビなどでも少なくなかったのは正直なところ驚きだった。 おそらく、大半の人は「核武装はするべきではない」と考えているし、言いだしっぺの中川政調会長や麻生外務大臣なども「非核三原則は堅持する」ということを明言している。しかし結論が出ているなら、どうして議論をする必要があるのだろうか・・・・?断っておくが「議論はあってもいい」のは当たり前である。テレビの討論番組で核武装論に言及する人はいくらでもいる。しかし、国会の貴重な時間を割いて議員同士が議論する必要があることなのかどうかは、全く別の話である。ところがこのことを理解せずに、「核武装は反対だが議論はあったほうがいい」という、自家撞着を起こしている人たちが後を絶たない。そこでは、「何を主張するため

    核武装論―議論はなくてもいい - 狂童日報
  • なぜ若者は政治運動をしなくなったか - 狂童日報

    昔ちょっと問題提起だけしてそのままになっていたのだけれど、若干だけ考えがまとまったので書いてみたい。 (1)大学生の大衆化 若者の政治運動は昔から、というか世界的に見ても学生が主体である。学生運動が最も盛んだったのは明らかに1960年代だが、今と明確に異なるのは、その頃の学生は明確にエリートだったことである。少なくとも、「末は博士か大臣か」という周囲の期待を背負いながら受験勉強をしてきた世代である。「俺たちが将来の日をリードするんだ」という意識が強く、また周囲もそのように期待していた時代には、政治や社会の問題に対して敏感に反応し、かつ行動することがある意味学生の証であるようなところがあり、また学生が熱く語る怒りや理想にも有り難味が感じられたのである。 しかし1970年代以降、大学の進学率は20パーセントを超えて大衆化し、一流大学の卒業生もほとんど平凡なサラリーマンになることが当たり前にな

    なぜ若者は政治運動をしなくなったか - 狂童日報
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