南京大虐殺否定論として語られている言説に対して、今まで僕はあまり関心を引かれなかった。それは事実をめぐる否定論のように感じたからだ。事実というのは、石ころの存在すら主張するのは難しいと哲学で言われるように、それは100%確かだというのは難しい。常に反対を語りうるという、水掛け論の可能性をもっているのが事実をめぐる主張だ。 「あった」か「なかった」かという事実そのものをめぐる肯定論・否定論は形式論理的に見てもあまり面白いものではないと感じる。いくつかの条件を恣意的に選んでしまえば、「あった」という判断を捨象することができて(「あった」という判断に結びつくような事実はすべて誤差として排除する)、「なかった」という結論に結びつけることができるような論理展開ができる。他の前提を選びなおせば、逆に「なかった」という判断に結びつくような条件を捨てて、「あった」という判断を論理的に導くことが出来る。 南