早稲田大学理工学部建築学科で長く教壇に立ち、日本建築士会会長他、団体の要職も多く務める。民家、服装研究などで業績があり「考現学」を提唱し、建築学、住居生活や意匠研究などでも活躍した。文化女子大学短期大学部・現文化学園大学短期大学部との関わりもあり家政学を教えていたこともあるが、旧来の家政学や社会政策学への批判認識から生活学を提唱した。後に日本生活学会を発足させ会長に就任。 関東大震災後、菜っ葉服(ジャンパー)を着るようになり、結婚式や宮邸への訪問、大使館でのパーティーなどにも背広でなくジャンパーで通した。 「白茅会」参加より端を発する柳田國男門下としての民家研究、日本全国と大陸に渡る農村生活調査活動、関東大震災後のバラック装飾活動による独自の視点から都市と生活復興への関与と風俗観察、生活文化の流れからの服装研究など、研究者としての調査研究活動範囲は多岐にわたる。 1910年代から石黒忠篤か