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●送り手(作り手)と受け手を分けて考えることが、何か大きな、根本的な間違いであるように思う。例えば、野球を好きな人は、身体や健康上の理由などがなければ、大抵、自分でもやろうとするものではないだろうか。草野球のチームに入るというところまで行かないにしても、キャッチボールをしたりバッティングセンターに行ったりくらいはするのではないだろうか。あるいは野球ゲームとか。何かしらの理由でそれが出来ないときは、その現状に不満をもつものなのではないだろうか。「野球が好きだ」ということのなかには既に、観ることとすることの両方が含まれるのではないか。あるいは、音楽が好きな人ならば、自分でも楽器を演奏したり、曲をつくったりするのではないだろうか。それを特に、人前で披露したりはしないにしても。 逆に言えば、野球を「観る」だけ、音楽を「聴く」だけで満足するような、「野球が好き」「音楽が好き」には、どこかいびつなもの
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『神話が考える』は書店に並び始めているようです。よろしければ、ぜひ。 さて、来月頭にGEISAI大学で講演することになったのですが、その関係で、大阪中之島の国立国際美術館でやってる「絵画の庭:ゼロ年代日本の地平から」をふらっと見てきました。ゼロ年代の日本画家の一つの傾向を知る上ではとてもいい展覧会だったので、関西圏在住で、未見の方にはおすすめしておきます。 で、パンフにも書いてありましたが、とにかくゼロ年代の美術界は抽象画が描かれなくなり、具象画に振れた時代だったと。実際、展示されてる作品を見ても、少女を描くにせよ、あるいは自然(なぜか「森」が多い印象でしたけど)を描くにせよ、とりあえず輪郭をちゃんと持った存在を前提にして、それをちょっとアートっぽく崩していくというのが、ゼロ年代的傾向だったということはよくつかめます。 もちろん、それはそれでいい――というか、時代ごとに戦線は違って当
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