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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/f-ryota (14)

  • 具象画の抽象性 - 仮想算術の世界

    『神話が考える』は書店に並び始めているようです。よろしければ、ぜひ。 さて、来月頭にGEISAI大学で講演することになったのですが、その関係で、大阪中之島の国立国際美術館でやってる「絵画の庭:ゼロ年代日の地平から」をふらっと見てきました。ゼロ年代の日画家の一つの傾向を知る上ではとてもいい展覧会だったので、関西圏在住で、未見の方にはおすすめしておきます。 で、パンフにも書いてありましたが、とにかくゼロ年代の美術界は抽象画が描かれなくなり、具象画に振れた時代だったと。実際、展示されてる作品を見ても、少女を描くにせよ、あるいは自然(なぜか「森」が多い印象でしたけど)を描くにせよ、とりあえず輪郭をちゃんと持った存在を前提にして、それをちょっとアートっぽく崩していくというのが、ゼロ年代的傾向だったということはよくつかめます。 もちろん、それはそれでいい――というか、時代ごとに戦線は違って当

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    Imamu 2010/03/27
    「「無垢な少女の無垢なグロテスクさ」「白痴的存在の残忍さ」~人為的に構築されたタブーを人為的に破ってるだけ」「ポイント-だまし絵的な二重性~残酷童話的なものは~一重の「意味」しかない」ルイス・キャロル
  • ★★『最果てのイマ』試論(完) - 仮想算術の世界

    ここまで記してきたように、僕たちはさしあたり二種類のメタテキストを区別することができる。ひとつは神話の言葉、すなわち世界に内在する構造を発色させるマーカーのような言葉である。ここでは、ドゥルーズ『消尽したもの』の概念を借りて、前回同様それを「言語Ⅰ」と呼ぶことにしよう。この場合、言葉は現実の対象と結びついているわけではない。したがって、リアリズムの言語ではない。そのかわりに言語Ⅰは、見逃されがちな構造を発見するヒューリスティックな性質を濃密に帯びている。しかも、言語Ⅰは必ずしも狭義の「言語」に限定されるわけでもない。 たとえば、現代のアートで使われる記号は、その性質において限りなくこの「言語Ⅰ」に近づいている。デュシャンやケージは、美術や音楽の記号がこれまでアートとは見なされてこなかった対象とこそ親密な関係を築きうること、あるいは否応なく築かざるをえないことを示してきた。しかし、それは往

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    Imamu 2010/02/02
    『快楽のイデアはありえない。快楽はつねに半ばは忘れられたもの』『日常という快楽の園はむしろ周到につくられなければならないこと、終わりをできるだけ延期するような仕掛けが要るということ』
  • 阿久根市長発言と生権力 - 仮想算術の世界

    ブログほったらかしですみません。新著(『神話が考える』)のほうは徐々にゲラになっておりますので、どうぞ期待してお待ちください。そういえば、最近ほうぼうから「何でツイッターやらないんだ?」と詰問されているのですが(笑)、ツイッターは確かにシステムとしては大変興味深いとはいえ、ちょっと自分でやるのは二の足を踏んでしまう…。いや、ツイッターは当はかなり破壊的だと思いますよ(笑)。まぁそうはいいつつも、どうせ来年には始めてるんでしょうが。選択の余地はなさそうです。 最近は抽象的なばかり読んでいて、ニュースもたいして見ていなかったのですが、阿久根市長の竹原信一の発言は非常に重要です。「高度医療が障害者を生き残らせている」という発言が実はきわめて正確であることは、フーコーを読んだ人ならわかるはずです。フーコーは、およそ二つのタイプの権力を分けています。一つは生殺与奪の権限を握った古典的な権力、つ

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    Imamu 2009/12/23
    『生権力の時代には「死」がタブー~積極的に「死」を選択することに対して~強い圧力(権力)』『データの世界では切断が機能しない~むしろ物理的世界でも切断(つまり死なせること)が機能しない場面が』
  • サバルタン的主体のことなど - 仮想算術の世界

    お久しぶりです。なんだか更新が空いてしまいました。 エンドレスエイトが終わったらしいですね。それはそれとして、ただエンドレスエイトをめぐるこの間のネットの反応というのは、やれ角川と京アニは謝罪しろだの、やれ発案者を更迭しろだの、いくらなんでも幼児的すぎるものが多くて、さすがにどうかと思いました。もちろん、アニメをはじめサブカルチャーというのは、ファンとの距離がきわめて近いところに特色があって、そこから表現的に面白いものが出てきたという歴史もある。しかし、常識的に考えれば「作品をつくる側には固有のロジックがあって、それはときに消費者やファンの欲望と乖離することもある」というのが文化という営みの大原則でしょう。そういう乖離があってはじめて、文化は進化の可能性に開かれるのであって、逆にちょっとした乖離も許せないということになれば、文化は確実に停滞する。その意味で、最近は何かにつけて不寛容な反応

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    Imamu 2009/08/12
    「冗長性とそこから来る変異性をちゃんと読み~それまでの概念体系では余剰でしかないもの」『エンドレスエイトのDVDが売れようが売れまいが、そんなことは評論とは何の関係もありません』
  • 演劇的モデルの可能性 - 仮想算術の世界

    このあいだから何回かに分けて、物語の変異について論じてきた。しかし、ゲームやアニメにことさら接近するこの態度は、場合によってはひどく安直で迎合的なものに映るかもしれない。むろん僕としては、そう受け取られるのはまったく意ではない。そこで、今回は抽象度を上げ、もう少し大きな文脈に接合してみよう。 * いまが手元にないので多少うろ覚えだが、浅田彰氏は以前『文學界』(*以前『新潮』と表記していたが、誤りのため訂正。07/9/6)のロラン・バルトを取り上げた座談会で、日小説というのがあまりにも映画のモデルに偏りすぎ、演劇を軽視してきたという趣旨の発言をしている。これは重要な指摘だと思う。なぜなら、文芸に限らず、日文化というのは総じて映画との関係においてつくられることが多いからだ。それは、映画の文法を直に真似た作品としてあらわれることもあれば、映画にできないことをあえて積極的に実現しよ

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    Imamu 2009/07/24
    ロマン派「虚構を非-知と結びつけそこに「成熟」に到る経路を見出しがち」/ギリシャ的演劇「内的((組み立てに畳み込む))~表象の交換=コミュニケーションの精密な配列によってその総和を超えた何かを現出させる」
  • モノとしての記号 - 仮想算術の世界

    知り合いに放映中の『ハルヒ』のエピソード「エンドレスエイト」がいいと聞いて、選挙速報の傍ら、録画をまとめて見てみました(そういえば最近あんまりアニメ見てなかった)。4回連続で同じ話をループしているというやつ。 ご覧になった方はわかると思いますが(詳しい説明は面倒なのでしません)、このループは明らかに、長門視点から見た世界を示している。で、僕はそこがかなり批評的でいいと思いました。長門はもともと、他のキャラとはまったく別の時間性を持って動いているキャラです。特に今回はハルヒと対比されていてそこが面白い。 ハルヒは定期的にイベント(祭り)を欲するキャラです。夏休みのお決まりのイベントをこなしていく今回のハルヒは、特にそういう欲望を全面化させている。それに対して、長門はそういう「ハレ」の時間性を持たない。彼女は、人間社会の祭式の時間性とは全然違うロジックで動いている。今回にしても、何の変化も

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    Imamu 2009/07/13
    (エンドレスエイト)(けいおん!13話)「ハレ」の時間性(祭り)-われわれの消費スタイルの寓意/長門の時間性//記号としてのモノ(マーケットの時間性に合わせた)/モノとしての記号(固有の時間性を持った)
  • ウルトラマンのことなど - 仮想算術の世界

    お久しぶりです。急に学術論文を一仕上げなければならない必要が出てきて、ブログのほうは更新が空いてしまいました。もともと僕は、中国文学を専攻するアカデミシャンとしては「日近代文学の起源」ならぬ「中国近代文学の起源」みたいな仕事をしたかったのですが、ずっとアイディア止まりだったので、そろそろ腰を入れて取り組みたいところです。 とりあえず、今月の原稿は以下。 ■「ホモ・エコノミクスの書く偽史」『思想地図』vol.3 ■「ゲームと儀礼」『ユリイカ』6月号 プラス、紀伊國屋書店さんが運営している「書評空間」というサイトに寄稿することになりました。どういうスタンスで書けばいいのか非常に悩ましいのですが、今月中には何かアップすると思います。またお知らせします。 * あとは、えー、何でしょう…。そういえば、久しぶりに『ウルトラセブン』をちまちま見直したりしていたのですが、やっぱり面白いで

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    Imamu 2009/05/19
    「『ウルトラセブン』~無邪気にアメリカ化した世界で、もう一度「人間的」で「実存的」な問いに~『帰ってきたウルトラマン』はアメリカ化しつつある日本の風景を、地べたからルポルタージュのように拾い直す」
  • アニメの物質性 - 仮想算術の世界

    『けいおん!』に近場の風景がぽんぽん出てくることに我慢できなくなって、「聖地巡礼」を敢行してしまいました。実際『けいおん!』の舞台は半分くらい僕の生活圏とかぶっていて、たとえば第1話で律たち3人がだべっていたマクドナルドは、たまにそこで原稿書いたりゲラ直したりする行きつけの店だったりするし、オープニングで階段だけ出てくる京都造形芸術大学はいまの家から自転車で3分くらいのところだったりするし、第2話に出てくる楽器屋(10GIA)は京都三条のJEUGIAがモデルで、高校時代からよくCDを買いに行っていた馴染み深い店でもあるし…というわけで、あんまり冷静に見ることができないんですけど(笑)。まぁ、これまで出てきた(あるいは、これから出てきそうな)風景を類推しながらデジカメでぱしゃぱしゃやってると、なんというか、純粋に楽しいですよね。これは病みつきになりそうです。 そういう個人的な盛り上がりは抜

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    Imamu 2009/04/20
    『「同一化」ではなく「並列化」を目指すような想像力、それが聖地巡礼という「シミュレーショニズム」のひとつの本質では』『並列化の欲望というのは、あちら(作品)とこちら(消費者)の距離を根本的に消して』
  • 表現のリポジトリ - 仮想算術の世界

    最近は『ユリイカ』の連載に使えるかなと思って、柄谷行人『隠喩としての建築』を読み直していました。まぁ古いなんですが、いまふうに言えば「ソシオフィジックス」の走りみたいな論文が収められていて、いろいろ考えさせられます。 たとえば、このには、クリストファー・アレグザンダーの「ツリー」と「セミ・ラティス」の区別が採用されていますが、これはいまふうに言えば、新聞やテレビに代表される垂直統合型のマスメディア=ツリー構造に対して、さまざまな素材を横断的に組み合わせながら随時異なる集合を組み立てていくニコニコ動画=セミ・ラティス構造の区別にも対応させることができる。つまり、一方の要素が他方の要素を完全に包摂してしまうのではなく(ツリー構造)、むしろある要素と別の要素の組み合わせが部分的に「オーヴァーラップ」し、かつそのアナログな重なり合いが無数の要素間で形成される(セミ・ラティス構造)、そういう多

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    Imamu 2009/01/28
    「シンボルとアレゴリーの交差」=「リアルな身体とそれを裏切る記号の虚構性とが交差」
  • <普遍語>のテロ、<現地語>のテロ - 仮想算術の世界

    水村美苗さんの『日語が亡びるとき』は、<普遍語>と<現地語>に、近代文学と結びついた<国語>が対置されるという構図になっています。簡単に言うと、<普遍語>が万人に通じる普遍的な知の世界だとすると、<現地語>というのは日常的なおしゃべりの世界です。たとえば、かつてならラテン語が、いまなら英語が<普遍語>として考えられる。知を一極的に集中し管理することのできる言語がひとつ決まっていて、あとはその下層で<現地語>のおしゃべりが生まれては消えていく。そういう二極化が、現代のグローバルな情報環境の下で進んでいる。それが水村さんの見立てです。いわば、近代以前の中世的な世界になっているわけです。そこでは、日語は知を担う言葉というよりも、おしゃべりの言葉としてのみ生き残ることになる。 そして、水村さんの構図では、来その両者の中間的な存在として<国語>がある。<国語>とは、知的でありながら日常的な言

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    Imamu 2008/11/29
    『万人に通じる<普遍語>によるテロか、誰にも通じない境界づけ=<現地語>によるテロか』『『悪霊』的な思想犯は存在しにくく』『暴力~ただのマーカー~時が経てば、別の暴力=神話によって上塗り』
  • 続・ナルシシズムの変質? - 仮想算術の世界

    最近はヴィルヘルム・ライヒのをいろいろ読んでました。いきなりすごく感覚的な話で恐縮ですが、僕は10年代は「心の時代」になるんじゃないかと勝手に想像していて、ライヒもその想像の延長で読んでます。 たとえば、前回言及したように、宇野常寛さんのはセカイ系のナルシシズムを強く批判しています(付け加えておくと、これは宮台真司さんの主張の延長線上にあります)。しかし、冷静に考えれば、1970年代以降のポストモダン社会というのは、特にフェミニズムとエコロジーを通じて、かなり人為的にナルシシズムを殺してきた社会です。だからこそ、いまだに時代錯誤的なナルシシズムを抱えているように見えるオタク文化やセカイ系に、強い感情的な反応が集まるわけです。 これは比較的わかりやすい話だと思いますが、意外にその含意はつきつめられていない。たとえば、ナルシシズムというとフロイトですが、彼は他者(対象)を愛するためには

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    Imamu 2008/08/06
    ロリコン-同一化-ナルシシズム/フェミ,エコ-ナルシシズム抑圧『オイディプスもナルキッソスもなしに、自己と他者がすぱっと峻別された世界が仮に望ましいのだとして、果たしてひとはそれに耐えられるのか』
  • 『ナディア』とMAD的なもの - 仮想算術の世界

    黒瀬さんのブログで、アニメのOPの話が語られています。いま気付きましたが、彼と会ったのは今年の3月のことなので、まだほんの2、3ヶ月くらいしか経っていないわけですが、それから随分と物の見方は変わりました。美術評論も気で読むようになったし、この作品は黒瀬さんならこう読むんじゃないか、という類推もよく働くようになった。僕にとっては、すでに得難い友人です。 ただ、黒瀬さんとしゃべっていると、自分の趣味がとても子どもっぽいということはすごく感じます(笑)。やっぱり彼は美術家らしく学生時代からいいイメージをたくさん見てきたひとで、その体験が自然に思考に流れ込んでいる。逆に『To Loveる』だのMUGENだの言ってる俺ってどんだけ厨房やねん……、と時々我ながら情けなくなる瞬間があります。 とはいえ、たぶんそこにも理由があるはずなんですね。黒瀬さんに便乗して語り始めるなら、僕にとってアニメのOP

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    Imamu 2008/05/23
    「MAD的-イデア論的/アニメ的-イデアと質料の相互性(細かい「現象」に異常に気を遣う)」→アイドルヲタの「DD/単推し」。。。いや違うな。アイドルは個々の人間(現象)を追うからイデア論的にはならないのかも
  • 岡田斗司夫氏の新著について - 仮想算術の世界

    岡田斗司夫さんの『オタクはすでに死んでいる』。僕は発売直後に読み、ふつうに納得してそれで終わったのですが、さっきちょっと気になってネットを調べてみたら予想外に否定的――というかむしろ嘲笑的――な反応が多くて驚きました。そんな簡単にバカにしていいんでしょうか。 僕の印象では、ネットの評判は「オタクは死んだというが、それは岡田の思いこみで、いまでもオタクはいるし、これからもオタクは生き続けるだろう」というひとと、「岡田が言うように昔ながらのコアなオタクが死んだとして、だからどうだというのだ」というひとに大きく分かれています。けれども、それはどちらも浅い主張だと思います。 そもそも、なぜ論壇はオタクに惹かれるのか。いろいろな側面はあると思いますが、いちばん単純な理由は戦後の問題です。東浩紀さんがずっと言っているように、オタクというのは戦後日の価値を凝縮し、かつ大きくねじ曲げた文化階層として

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    Imamu 2008/05/13
    (戦後日本)(造り変える力)//「過剰人工的」テレビ/「過剰自然的」ゲーム//『ゼロ年代がオタクの遺産を食いつぶしていく10年だったとして、2010年代の実作や批評はその厳しさに直面することになると思います』
  • ケータイ小説の環境/神話とは何か2 - 仮想算術の世界

    東浩紀さんのブログの記事に引っ張られて、濱野智史氏の「恋空」論(3)を読んできました。このブログの読者ならおわかりのとおり、僕は現代文化を「神話的操作」のシステムとして読むことをずっと提案しているわけですが、濱野さんのエントリーはまさに『恋空』をケータイ的な「操作ログ」の集合として扱っている。共感するところ大でした。 ところで、濱野さんは後半で、東浩紀さんの言う「ゲーム的リアリズム」とケータイ小説の「操作ログ的リアリズム」を分けています。ただ、僕の印象だと、ゲームとケータイというのは必ずしも対立するものではない。むしろゲームもケータイも、同じ現象の二つの枝分かれとして読める側面があります。それはまさに、前回のエントリーで説明した「神話」の問題です。 いきなり些末な世代論になるかもしれませんが、たぶん濱野さんや僕の世代(80年前後生まれ)は、物心ついた段階で「遊ぶこと≒テレビゲームするこ

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    Imamu 2008/02/26
    ジェネレータ(メタ情報込み)「変換する規則の集合」/「神話のヴァリエーション」(オタク系,ケータイ小説,ニコ動)
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