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ブックマーク / d.hatena.ne.jp/north2015 (5)

  • 「物語感覚」の外国人として - N.S.S.BranchOffice

    はてなエコー, メモ「物語感覚」は普遍的ではないのかもしれない - 魔王14歳の幸福な電波見かけたのでおーざっぱにメモっときます。主題とはややずれるかもしれないけど。既にブックマークコメントでもid:kashmir108さんが指摘してるんだけど、手元にちょうどあるので*1ちょっと該当するっぽい部分を引用しておきます。朝日文庫版『物語の体操』の66ページ目。書の目的の一つが小説家が小説家であることの特権をどこまで一般の人に修得可能なものとして解放しうるかを検証することにあるのは、すでに何度も述べています。しかしその一方でぼくは「物語」というものに対してそれを母国語とする人と外国語とする人の二通りの人間がいることを否定しません。ただしそれは「物語」を母国語とする人を特権化することを意味しません。例えば同じ小説家であっても中上健次や村上春樹はかなり努力して「物語」という外国語を修得した人ではな

    Imamu
    Imamu 2009/10/07
    文芸批評的なこと/政治批評的なこと
  • サマーウォーズにみる、世界のひろがり - N.S.S.BranchOffice

    映画, はてなエコー『サマーウォーズ』を見てきました。事前に評判を聞いていたら、絶賛半分、難色半分、という感じで、まあいい映画ってのはたいていそんなもんかなと思いつつ視聴してきましたが……結論から先に書くと、とても楽しめました。リアルな田舎の風景があり、バーチャルなネットワークの風景があり、地縁と血縁でつながる大家族があり、ネットワークで接続される世界中の人々があり、泣かせるところあり、熱いところあり、ほのぼのするところありの、まさにてんこ盛り。まさに夏映画。でも、がちゃがちゃと組み立てられながらも決定的な破綻は起こらず、さまざまな要素が絡み合いながら最後の逆転の連続にぎゅっと収束していくところはさすが、という感じ。瑕疵はあったかな、とは思うけど、前作の『時をかける少女』と比べても、楽しめました。どんなふうであれ、楽しめた映画は(僕にとって)まずはいい映画です。時間があればヱヴァと同じよう

    Imamu
    Imamu 2009/08/21
    「忘れられてしまった主人公」「描かれない世界は、しかし確かに存在している」『「見えなさ」はすぐれて「ネット的」』
  • 秋葉原通り魔事件記事リストと、高速消費される事実のこと(1) - N.S.S.BranchOffice

    はてなエコー自分のために、まず事件発生からの直接関係した話題を注目エントリーから手作業で抽出(抜けてたら教えていただけるとありがたいです)して、読み取った要旨を書き出してみる。あらかじめ注意すると以下の要旨はいずれも当該のブログからの引用、改変引用を含みます(以下、いちいち断りませんが、それぞれ参照してください)。要約しているため必ずしも丸まるの引用とは限りませんので注意してください。それぞれ正確な内容は当該の記事を参照してください。また引用を行う際には孫引きを防ぐためにもともとの記事を参照してください。 2008-06-08秋葉原で、通り魔事件発生 刃物で数人を刺し逃走→確保されました。 - 酔拳の王 だんげの方事件に関する報道のまとめ、及び写真。なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流 - No Hedge!犯人の動機について。動機として、自らの住んでいた不全を起こした生活空間(

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    Imamu 2008/06/10
    (アキバ)当事者レポ/一般人による報道/ブログ/一般報道/犯人/秋葉原/
  • まだあの夏を越えられていない/つまりついに受容されなかったおたくの終焉と、失敗し続ける語り手 - N.S.S.BranchOffice

    はてなエコー, EVAオタクから個人主義へ。--Something Orangeついに受容されなかったメッセージ「オタク」から個人へ。価値観の異なる相手ともきっちりと対話しあうことのできる「言葉」を確立するということ。互いにわかりあえないこと、差異があることを前提として受け入れ、その上でなお、理解しあえる何かを模索すること。第一世代の遂に成し遂げられなかったことを、第三世代以降の「ポストオタク」世代は成し遂げるのかもしれないし、やはりあいかわらず「依存」と「排斥」が続くのかもしれない。それはわからない。オタクから個人主義へ。--Something Orangeこういう記事を読むといつも、ああ、あの夏から12年を経てなお、我々(という言い方にはやっぱり語弊があるような気がするんだけど、とりあえずはそういう言い方にしよう)はまだここで足踏みしているのだと思ってしまう。あの夏とは何か、といえば、

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    Imamu 2008/05/18
    (エヴァ)(セカイ/決断)「『コードギアス 反逆のルルーシュ』であれ『デスノート』であれ、そこで要請され主人公として行動を起こす「強い私」は、そういう仮面を付けなければ世の中渡っていけない「弱い私」の裏返し」
  • 喪失体験で彩られる少女の物語/成功体験で彩られる少年の物語Ⅰ(前座) - N.S.S.BranchOffice

    はてなエコー, 二次創作少女たちのポストモダン - ケータイ小説に見る彼女たちの記号的消費誰もが動物である、ということ/全ての物語は順列組み合わせであり、似ているこの議論での「オタク」における萌えの消費と「少女たち」におけるリアルの消費についての対比ということ自体については、そこまで驚いた、というわけではない。というか、そういう要素の消費形態だけを問題にするならもう少し広げることができるし、それはほんらいはポストモダンという言葉を使わなくても成立する議論ではないか、と思った。昨日の日記でちょうど書いていたんだけど、それら問題にされているような物語は、つまりは事物・事件を「ガジェット*1」として用いることによって成立している物語であるように思う。ある事物をテーマとして語るための物語でなく、物語を語るためのガジェット、物語に従属する設定、という水準にあるという点でそれらの物語は共通している(何

    Imamu
    Imamu 2007/12/03
    『誰もが動物である、ということ/全ての物語は順列組み合わせであり、似ている』「ゲーム的リアリズム」:『ゲームシステムに依拠する物語の作られ方、そこでのジャンル化を追認するもの以上のものであるのか?』
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