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ブックマーク / arabic.kharuuf.net (2)

  • 「知っている」者と「正しさ」

    先日、ある免疫系の難病を患っている方の書いたブログ記事を読みました。 その人は思春期の頃からたびたび強い倦怠感や疲れにおそわれていたそうですが、病院に行っても原因が分からず、精神的なものとかうつ病と言われたり、年齢と共に落ち着いてくる、といったようなことが言われていたこともあるそうです。周囲の人からも理解が得られなかったようです。 それが遂に、免疫系の難病だということが判明してホッとしたそうですが、その時一番良かったことが「他人に説明できる」ということだったそうです。 これは示唆に富んだ言葉だと思います。 その病気は難病指定されているくらいですから、おそらくそれと分かったところで簡単に治るようなものではないのでしょう。まだ治療法も分からず、もしかすると一生そのままかもしれません。それでも「説明できる」ことがその人にいくらかの安心をもたらしています。 ここから読み取れる教訓の一つに、周囲の人

    「知っている」者と「正しさ」
    Imamu
    Imamu 2015/10/16
    「「正しさ」や「釈明できること」が、問題そのものの解決と同じか、場合によってはそれ以上に大切である」「病院=医学~権威~「正しさ」を付与」「科学性~真理に漸近~反証可能性」
  • 一つの多神教という日本的ファンタジー

    『原理主義から世界の動きが見える』の中で、手島勲矢氏が、「一神教」と「多神教」についてハッとさせられることを書かれています。「一神教」「多神教」という構図をこれほど多用し社会現象に援用するのは特殊日的であり、その背景には「一つの(日的)多神教」という暗黙的な了解があるのではないか、という指摘です。 ちょっと長くなりますが引用しておきます。 (・・・)高度な抽象概念「一神教」「多神教」を、堂々と形而下の生々しい国際紛争と結びつけてしまう――こういう発想は、欧米の学者からは出てこない。彼らにとって、「一神教」「多神教」の区別は、あまりにも学術的な区別であって、それらを具象的な現象に援用するのは宜しくないのだ。しかし日では、識者だけでなく一般人も、この区別を違和感なくすんなり受け入れている印象がある。 この理解のギャップから私が思うのは、日人の論じる「一神教」「多神教」という区別は、欧米

    Imamu
    Imamu 2010/03/11
    「「日本的一神教的多神教」においては、それが「一つの多神教」であることが意識されていない」
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