「ゴースト」じゃなく「ヴァルキリー」です。 離陸可能になりペイロードが増大か アメリカの防衛企業であるクラトス・ディフェンス&セキュリティソリューション(クラトス)は2024年7月2日、有人戦闘機に随伴する無人機XQ-58「ヴァルキリー」の滑走路での離陸に成功したと発表しました。 拡大画像 発射台から打ち上げられるXQ-58「ヴァルキリー」(画像:アメリカ空軍)。 XQ-58は親機である有人の戦闘機と適切な距離を保ちながら飛行し、情報収集、偵察、電子戦のほか必要に応じて、胴体下部ののウェポンベイ(兵器倉)に爆弾やミサイルを搭載し、対地や対空での火力支援も行うことを想定して研究が進められている無人機のひとつで、現在、世界各国で開発が進んでいる第6世代ジェット戦闘機などで装備されることが想定されています。 これまでXQ-58は、ロケットの様に、レールから空に向かって使い捨てブースターを使って打
アメリカで最も活躍が知られる旧日本海軍の戦艦は「大和」ではなく「金剛」です。高速を武器に、ガダルカナル島砲撃やサマール沖海戦でアメリカ軍の脅威となりました、どんな戦艦だったのでしょうか。 世界初の35.6cm砲戦艦「金剛」 1913(大正2)年に就役した旧日本海軍の戦艦「金剛」は、太平洋戦争に参加した日本の戦艦の中で最も旧式ですが、最も活躍した武勲艦でもあります。 拡大画像 旧日本海軍の金剛型戦艦4隻をとらえた写真(画像:アメリカ海軍)。 1904(明治37)年から戦われた日露戦争において、日本の大型かつ高速の装甲巡洋艦は、通商路保護と艦隊決戦で戦果をあげました。これを受けて、1907(明治40)年に世界で初めて戦艦と同じ30.5cm主砲を備えた筑波型装甲巡洋艦が建造されます。 その動きを横目で見ていた当時同盟国だったイギリスは、30.5cm砲塔を従来の2基から5基に増やした戦艦「ドレッド
ドイツ空軍機来日ですっかりお祭り騒ぎの北海道千歳基地。そこに、見慣れぬ塗装のKC-135空中給油機が飛来して、大きな注目を集めています。この機体、じつは“民間機”でした。 千歳にやってきた「ドイツ軍の空中給油機」そんなのいたっけ? 「本日(7月23日(火))11:20頃、ドイツ軍の空中給油機(KC135) 1機が千歳基地に着陸しましたので、お知らせします」 これは、北海道千歳市がホームページ上で公表している北海道防衛局からの「令和6年度 日独西共同訓練及び日独共同訓練について」のお知らせ欄に掲載された一文です。じつは、このお知らせには不可解な点があります。というのも、ドイツ軍はKC-135空中給油機を保有していないのです。 拡大画像 MSMが運用するKC-135(画像:Metrea)。 KC-135「ストラトタンカー」は、ボーイング367-80をベースに開発された空中給油機で、これまでに8
3日午前、神奈川県海老名市の田んぼにアメリカ軍のヘリコプターが不時着しました。けが人はおらずヘリコプターは1時間40分ほどあとに離陸して現場を離れ、警察などが引き続き詳しい状況を調べています。 3日午前11時前、神奈川県海老名市の田んぼに「NAVY」と記載のあるアメリカ軍のヘリコプターが不時着しました。 消防によりますと、ヘリコプターはアメリカ軍の厚木基地から山口県にある岩国基地に向かって飛行する途中だったということです。 12人の搭乗員がいて「エンジントラブルが起きた」という情報がアメリカ軍側から寄せられているということです。 不時着によるけが人や周囲の建物などへの被害はありませんでした。 警察によりますと、機体の周囲を確認したところ損傷や油漏れなどは見られず、ヘリコプターはおよそ1時間40分後の午後0時40分ごろに離陸して現場を離れました。 市によりますと、出発地の厚木基地に戻ったとい
パリ五輪の射撃の混合エアピストルで、銀メダルを獲得したトルコのユスフ・ディケチュ選手が、日本のSNSなどで「無課金おじさん」として注目を集めていますが、かつて銃を取り上げられたことがあるとか。 憲兵時代に使っていた銃を取り上げられた? パリ五輪の射撃の混合エアピストルで、銀メダルを獲得したトルコのユスフ・ディケチュ選手が、日本のSNSなどで「無課金おじさん」として注目を集めています。 拡大画像 トルコ国家憲兵隊(ジャンダルマ)の隊員(画像:トルコ内務省国家憲兵隊司令部)。 エアピストルで他の選手が装備していたゴーグルや耳当てなどを使用せず、飛行機かホテルのアメニティから拝借したのではという耳栓のみをつけ、ラフなTシャツ姿で射撃に臨む独特のスタイルが、課金ありのゲームで無課金の基本装備で挑んでいるように見えることが話題になっているのです。 日本のSNSでは「本職だろw」「本物のヒットマンでは
男爵・西徳二郎の三男として東京市麻布区麻布笄町(現在の港区西麻布。住居は麻布桜田町付近)にて生まれた。正妻でない母は、出産後、家を出された。父は外務大臣や枢密顧問官などを歴任し、駐清公使時代には義和団の乱処理に当たった人物であった。義和団の乱の処理の際、清の西太后から中国茶の専売権を与えられ、巨万の富を手にしたといわれている。 学習院幼稚園を経て、学習院初等科時代は近隣の番町小の生徒と喧嘩を繰り返す暴れん坊であった。1912年(明治45年)には徳二郎が死去し、同年3月30日、その跡を継ぎ当主として男爵となる[3][注釈 1]後見人は西伊佐次。妻となる武子の祖父は川村純義海軍大将、父は伯爵・川村鉄太郎であり、武子の長姉・艶子は阪本釤之助の子で第二次世界大戦中の駐スイス公使時に終戦工作に奔走する阪本瑞男に嫁いだ。武子の次姉・花子は柳原白蓮の異母兄である柳原義光の後妻。子に長男の泰徳に、長女と次
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