こうしてみると、西軍の中には内通者が多く、機能していた部隊は実質的に41660人+α。 三成は結果的に圧倒的に不利な状況になっていたことがわかります。 裏切り頻発は三成の人望のなさか? 小早川・脇坂・小川・赤座・朽木の裏切り、そして毛利・吉川の傍観によって優勢を崩されてしまい敗れてしまった三成。 一般的には石田三成に人望がなかったため、裏切りが頻発して西軍は敗れたと言われます。 しかし、関ケ原の裏切りは果たして三成1人の責任として簡単に結論づけられることなのでしょうか? 先述したように、家康はかねてから諸大名に対し自分に付くように工作を進めていました。 それに応じたか否かによって、戦後の諸大名の処遇は大きく異なりました。 例えば、秀秋と安治はかねてから東軍に付くことを表明していたことから戦後も減封はされずに所領は安堵されましたが、流れに従ったに過ぎない赤座・朽木・小川は不義の者として減封を
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く