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ブックマーク / senjp.com (5)

  • 後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景

    後醍醐天皇(ごだいごてんのう)に関して、なんで隠岐に流されたのか?、なんで鎌倉幕府を倒そうとしたのか?、なんで味方だった足利尊氏が寝返ったのか?、なんで南北朝時代となったのか?など、歴史の背景などできる限り分かりやすく、ご紹介したいと存じます。 後醍醐天皇とは 後醍醐天皇は、鎌倉末期から南北朝初期の天皇ですが、大覚寺統・後宇多天皇の第2皇子でした。 母は談天門院忠子 (参議・藤原忠継の娘)です。 元寇もあったこの鎌倉末期の天皇は、後伏見天皇の「持明院統」と、亀山天皇の「大覚寺統」の2つに分裂した両統迭立(りょうとうてつりつ)となっており、それぞれの家系から交互に天皇を即位させていました。 後醍醐天皇の異母兄である後二条天皇は第94代天皇となっていましたが、1308年に24歳で急死し、持明院統の花園天皇(95代)が12歳で即位します。 当然、若年なので、持明院統の伏見上皇や、兄の後伏見上皇が

    後醍醐天皇の負けず嫌いな執念と室町幕府や南北朝時代になった背景
  • 徳川家康は大坂夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られた?南宗寺に残る伝承の謎

    NHK2016年の大河ドラマ『真田丸』も、いよいよ佳境を迎え、真田幸村と徳川家康の一騎打ちも迫ってきた。そんなクライマックスの舞台に用意されている大阪夏の陣には、ちょっと信じがたいミステリアスな伝承が存在することをご存じだろうか。それは、「徳川家康は、大坂夏の陣で後藤又兵衛の槍を受けて戦死していた」という“もう一つの史実”である。 そんなことを言えば、「家康が死んだのは夏の陣の翌年で、駿府城でしたてんぷらにあたったからじゃ?」「後藤又兵衛なら、道明寺の戦いで片倉重綱の鉄砲部隊にやられているはずだろ?」という反論の矢が飛んできそうだが、大阪・堺市にある南宗寺には、“家康は夏の陣で死んだ”ことを思わせる数々の遺物が存在するのだ。果たして、家康は当に夏の陣で命果てたのか?歴史の深い謎を検証する。 ◆大阪夏の陣 大阪夏の陣は、慶長20年(1615年)5月6日と7日の2日間にわたり、徳川幕府軍と

    徳川家康は大坂夏の陣で後藤又兵衛に討ち取られた?南宗寺に残る伝承の謎
    John_Kawanishi
    John_Kawanishi 2016/11/21
    「「家康が死んだのは夏の陣の翌年で駿府城で」「後藤又兵衛なら道明寺の戦いで片倉重綱の鉄砲部隊にやられている筈」「大阪・堺市にある南宗寺には“家康は夏の陣で死んだ”ことを思わせる数々の遺物が存在するのだ
  • 阿茶局【徳川家康の側室・須和】徳川家をかじ取りした女性

    阿茶局とは 阿茶局(あちゃのつぼね)は、武田信玄の家臣・飯田直政(飯田筑後久左衛門)の娘として、戦国時代の1555年2月13日に甲府で生まれた。 須和とも言う。 2023NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優(女優)の松若菜さんが演じられる。 父・飯田直政は、武田信玄と今川義元が和睦した際に、許しを得て今川義元の家臣になった。 1573年、須和(阿茶局)は19歳のときに一条信龍の家臣・神尾忠重(神尾孫兵衛忠重)に嫁いで、1574年に長男・神尾猪之助(神尾久光、虎之助とも?)を生んだが、23歳のときである1577年に夫・神尾忠重(43歳)が死没してしまう。 その後、未亡人であった須和は、1579年、25歳のとき浜松城に召されて、徳川家康(38歳)の側室となった。 ※武田勝頼の自刃後、子供を連れて、甲斐・黒駒にて徳川家康に初めて拝謁したとも。 美貌だけでなく、馬術や武術にも優れていたため

    阿茶局【徳川家康の側室・須和】徳川家をかじ取りした女性
  • 徳川秀忠 徳川幕府第2代将軍~凡庸ではなかった武勇ある実直な武将

    徳川秀忠とは 徳川秀忠(とくがわひでただ)は、1579年4月7日に遠江・浜松城にて誕生した。 父は徳川家康で、その3男であり、幼名は竹千代成と名付けられた。 母は側室の西郷局(於愛の方、宝台院)で、乳母・大姥局によって養育されたと言う。 2023NHK大河ドラマ「どうする家康」では俳優の森崎ウィンさんが徳川秀忠を演じられる。 長兄・松平信康は、徳川秀忠の生まれた年に切腹。 次兄・結城秀康は、豊臣秀吉の養子になったため、3男の徳川秀忠が徳川家の後継者となった。 1590年、豊臣秀吉の小田原攻めの際、実質的な人質として10歳で上洛すると、聚楽第で豊臣秀吉に拝謁・元服し、秀忠の名を賜った。 そして、織田信雄の娘で、豊臣秀吉の養女となった小姫(春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉の怒りを買って織田信雄が改易されると、離縁している。 1595年9月、豊臣秀吉の仲介で、浅井三姉妹の一人である浅井長政の娘・

    徳川秀忠 徳川幕府第2代将軍~凡庸ではなかった武勇ある実直な武将
  • 聚楽第の落書き事件~尾藤道休など60名以上が処刑された?

    聚楽第の落書き事件とは 戦国時代の1589年、何者かが夜陰に乗じて、聚楽第南外門にの白壁に落書きしたのが発見された事件。(落首事件) 落書きの内容は関白(豊臣秀吉)の政治を批判するものであったという。 一説には下記のような文章で落書きされていたと言う。 大仏の くどくもあれや やりかたな  くぎかすがいは 子たからめぐむ」 との記述であるが、上記文章は後世の創作である可能性があり、実際にどのような落書きがされたのかは記録が無い。 いずれにせよ、当時、豊臣秀吉は方広寺の大仏を建立する名目で刀狩令を出して批判されており、このようにして京都東山に大仏殿を建築しようとしていた事や、側室を多数持ちながら長年、子供に恵まれて来なかったのに、突然、茶々(淀殿)が懐妊した事から、あざ笑うかのような内容であったとされる。 誹謗中傷が落書きされたのに対して、豊臣秀吉はまず警備を担当していた番人に怒りをぶつけた

    聚楽第の落書き事件~尾藤道休など60名以上が処刑された?
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