現在、国際通念で「ナショナル・アカデミー」と呼びうる機能は日本においては学術会議と日本学士院に分散して存在する。なぜそうなったのだろうか。考えるために、ひとまず戦前に何があったのかを確認してみよう[1]。 話は明治に遡る。 明六社から帝国学士院へ まず明治6年(1773年)、森有礼や福澤諭吉が自由に作った民間団体としての明六社が生まれた。明六社は日本の近代化のために必要な問題を学術・政治・社会問題の別を問わず話合う組織であり、実質上、日本の最初のアカデミーといえる。実際、森はアメリカの知識人にlearned societyをつくりたいとのことで助言を求めたという。英語圏ではlearned societyというのは主にアカデミーを含めた学協会を指す言葉である。 その後、明六社は東京学士院となり、更に帝国学士院(Imperial Academy)となった。分野は文系理系双方を擁していた。 アカ