戦争に関するMARC73のブックマーク (17)

  • 公文書廃棄、73年前も 敗戦の霞が関に何日も炎と煙が:朝日新聞デジタル

    東京裁判に出された証言では、陸相により焼却が命じられたのは8月14日。防衛庁の防衛研修所30年史は「陸海軍は、秘密文書が連合国軍の手に落ちるのを防ぐため、重要文書を焼却した。陸軍省や参謀部のあった市ケ谷台、海軍省や軍令部のあった霞が関などでは、何日間も炎と煙が立ち上った」と記す。 日軍の暗号電報を解読した米英の文書には、インドネシアやシンガポールに展開する軍に焼却が命じられた様子も記録されている。 歴史を伝える資料の多くがこうして失われたが、偶然にも残されたケースもある。国文学研究資料館(東京)の加藤聖文准教授(51)は、各地の自治体で貴重な資料を確認してきた。ただ、公文書への意識の低さや自治体の財政難などから、散逸や腐の恐れがあるものもあるという。 今夏に訪ねた鳥取県境港市では、土決戦時の動員の流れを示す「(秘)」と書かれた資料などが段ボール箱に詰め込まれ、旧幼稚園舎に山積みされ

    公文書廃棄、73年前も 敗戦の霞が関に何日も炎と煙が:朝日新聞デジタル
  • 天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会 - 読む・考える・書く

    特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 戦争終結は「もう一度戦果を挙げてから」(1945年2月)→東京大空襲、全国焦土化、沖縄戦 「海軍にはもう艦はないのか?」(1945年4月)→大和特攻、2時間で4千人戦死 沖縄をアメリカに売った「天皇メッセージ」(1947年9月) 戦争責任は「言葉のアヤ」、原爆投下は「やむを得ない」(1975年10月) こちらの記事へのコメントで要望を頂いた件、面白そうなのでやってみた。 昭和天皇裕仁のクソな「思し召し」と言えば、すぐ思い当たるのはつぎのようなものだろう。 特攻隊は「よくやった」(1944年10月)→特攻作戦続行・拡大 海軍特攻隊の生みの親と言われる大西瀧治郎は、必ずしも特攻作戦に積極的ではなく、これを「統率の外道」と呼び、こんなことまでしなければ戦えない状況になっていると知れば、天皇が戦争を止めてくれるだろうと期待していたと言

    天皇裕仁のワースト・オブ・クソ「思し召し」大会 - 読む・考える・書く
  • (声)平和と戦争 火・命・死、伝えたい「生きる」:朝日新聞デジタル

  • (声)平和と戦争 兄と過ごした幸せの時もう戻らぬ:朝日新聞デジタル

  •  広州陥落70年

    切手というモノを、ちょっと違った角度から眺めてみると、あなたの知的好奇心をくすぐる新たな発見がイロイロあるのです。そんな切手の面白さを綴っていこうと思っています。 日中戦争下の1938年10月21日に日軍が広州を占領してから、今日でちょうど70年です。というわけで、今日はこんなモノをもってきました。(画像はクリックで拡大されます) これは、1942年11月19日、日軍占領下の広州から差し出されたカバーで、“粤區特用”との加刷が施された切手が合計3分貼られています。 日中戦争の時代、日軍は中国の各都市を占領しましたが、これらの占領地では、1941年まで中華郵政の切手がそのまま使われていました。日中戦争は宣戦布告なくして始まった“事変”であり、日軍が占領していた地域に関しても、建前としては“中国”(ただし、日側のいう中国とは、重慶の蒋介石政権ではなく、日軍が現地に樹立した親日派政権

     広州陥落70年
  • ベトナム・ソンミ村大量虐殺事件を振り返る | ヒューライツ大阪(一般財団法人アジア・太平洋人権情報センター)

    「参戦したくないものは、勉強をするか、自分の体を傷つけるしかなかったんです。兄は自ら眼を潰し、私は必死に勉強しました」。 徴兵逃れのため、歳をごまかし生きてきたグェン・ヴァンさん(53、実年齢は57)は、小さな声でゆっくりと語った。生まれも育ちもベトナム中部クアンガイ省。40年前、大量虐殺が行なわれたソンミ村(現ティンケ村)まで約30キロの田舎町で、と甥っ子の3人で暮らす。 ベトナムの戦争報道をする世界中のメディアを気にかけていたヴァンさんは、戦時中、ラジオから流れるイギリスのBBC放送によく耳を傾けていたという。 「BBCは当時、ソンミ村の事件を含め、ベトナムの戦争報道をきっちりとしていました。しかし、私自身が、ソンミ村のことをそれほど気に留めていませんでした。なぜなら、戦争で人が死ぬのは当たり前だと思っていたからです」。 米陸軍ウィリアム・カリー中尉率いる米兵部隊が、ソンミ村で504

  • 長勇の上海出張 - Apeman’s diary

    まもなく沖縄戦で日軍の組織的抵抗が終わってから66年になりますが、第32軍参謀長だった長勇は上海派遣軍の参謀として南京攻略戦に従軍し、南京陥落後に上海へと出張しています。何のために? 上海派遣軍の参謀長だった飯沼守少将の37年12月19日付け日記にはこう記されています(引用にあたって現代仮名遣いに改めた)。 迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す。 長中佐は25日に南京に戻ってきます。同じく飯沼日記より。 長中佐上海より帰る。青幇の大親分黄金栄に面会上海市政府建物等の打合せを為し先方も大乗気、又女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整い年末には開業せしめ得る段取りとなれり。 黄金栄の部下虞洽卿、王一亭等は中南支の一流の財界巨頭なりと。塩は彼等に売却し阿片を何とかして入手せしむる様考慮する筈。(後略) 「天皇陛下の軍隊であった我が「皇軍」が、そんな恥さらしになる従軍慰安婦なるもの

    長勇の上海出張 - Apeman’s diary
  • 花岡事件「和解」問題、その後 - Apeman’s diary

    関連エントリ http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20080205/p1 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090223/p2 http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20090809/p1 大戦中に花岡鉱山出張所で強制労働を強いられた中国人被害者が鹿島建設を提訴しその後東京高裁での協議により和解が成立した事例につき、被害者の一部が和解を拒否していること、その背景には和解条項が1990年に原告側と鹿島の間で行なわれた「共同発表」から大幅に後退していた*1だけでなく、この重要な後退が被害者らに伝えられていなかったことがある……という問題についてはこれまでも簡単にではありますがとりあげてきました(上記「関連エントリ)参照)。 4月25日に鹿砦社から発行されたムック、『告発の行方 知られざる弱者の叛乱』に収録された「三百代言で塗

    花岡事件「和解」問題、その後 - Apeman’s diary
  • 战士自述

  • 中国の犠牲者数1000万、2000万、3500万についての考察 - Transnational History

    ブログというかネット全般にうんざりすることが多くて距離を置いていたら、久しい更新になってしまった。 ひと月ほど前になるが、雁屋哲氏がブログで「日が過去に」「全部で2000万人とも言われる中国人を殺戮した」と書いたところ、それに対し、はてブで「ありえねー」的な反応だったり「むし返すな」と恐れたり「証拠は」と誤魔化したりと、まぁ、テンプレ通りの反応が多くあって、既にいくつかの批判するエントリが書かれている。 ・冷静になりましょう | 雁屋哲の今日もまた ↓ ・はてなブックマーク - 痛いニュース(ノ∀`) : 「尖閣衝突…まず日中国人2千万人虐殺謝罪しろ。尖閣に自衛隊?…日がおかしくなる訳だ」…美味しんぼ・雁屋哲 - ライブドアブログ ↓ ・痛いニュース(ノ∀`) : 「尖閣衝突…まず日中国人2千万人虐殺謝罪しろ。尖閣に自衛隊?…日がおかしくなる訳だ」…美味しんぼ・雁屋哲、のはて

    中国の犠牲者数1000万、2000万、3500万についての考察 - Transnational History
  • 第6師団下士官の手帳、発掘 - Apeman’s diary

    コメント欄でkiriko_mさんからNHKのローカルニュースで報じられたことをご教示いただきましたが、西日新聞でも報じられておりました。 西日新聞 2010年12月8日 「南京事件の従軍手帳入手 熊大教授ら」(魚拓) 1937年の日中戦争で旧日軍が関わった「南京事件」で、熊近代史研究会(会長=小松裕・熊大教授)は7日「中国人捕虜300人、全員を殺した」と解釈できる書き付けがある熊県出身兵の従軍手帳を入手した、と発表した。 (中略) 手帳には、南京が陥落した37年12月13日に戦闘に参加したとの記載があり、翌14日の箇所に「約三百捕領ス 全部殺ス」と書かれていた。会は「前日の戦闘での捕虜300人を第6連隊が受け取り、翌日全員殺害したと考えられ、国際法上、不法な『虐殺』とみなせる」と話した。 南京事件の犠牲者数や、戦争中の不法殺害(虐殺)の定義には諸説あり、立命館大の北村稔教授(

    第6師団下士官の手帳、発掘 - Apeman’s diary
  • 日中戦争めぐり首相「やられた方は覚えている」 日中ジャーナリスト交流会議が表敬訪問 - MSN産経ニュース

    鳩山由紀夫首相は5日午前、首相官邸で、日中ジャーナリスト交流会議の中国側代表団の表敬訪問を受けた。同席した日側座長の田原総一朗氏によると、日中戦争について意見交換した際、首相は「やった側は忘れ、やられた方は覚えている。心しないといけない」と語ったという。首相は日中両国の関係強化についても意欲を示した。 同会議は両国のジャーナリストが自由な議論を通じて理解を深めるため平成19年に発足し、中国側代表団は福田康夫首相(当時)とも会見している。

  • 時事ドットコム:李二喜氏死去(中国の「抗日英雄」)

  • 日中戦争における中国側犠牲者数の考察 - 誰かの妄想・はてなブログ版

    こと歴史、特に近代史に関する限り、wikipediaが当てにならないのは今に始まったことではないのだが。 反中バカが、中国人犠牲者数が年々増えている、と主張している根拠(らしきもの)がこれ。 発表年 犠牲者数 調査・出典 補足 終戦時 132万 GHQ調査・発表 国民革命軍のみ 終戦時 132万 国民党政府調査・発表 国民革命軍のみ 1948年 438万 国民党政府報告書 1948年までの確認数(【注意!】この時加算された犠牲者数の中には日中戦争終戦後に勃発した国共内戦などでの犠牲者数が含まれていることに注意) 1950年代 1000万 共産党政権発表 1970年 1800万 共産党政権発表 1985年 2100万 共産党政権発表(抗日勝利40周年) これ以後 博物館や教科書で公式数字となる 1998年 3500万 江沢民発表 江沢民氏の演説で発言後、南京大虐殺記念館での公式数字となる 2

    日中戦争における中国側犠牲者数の考察 - 誰かの妄想・はてなブログ版
  • 『珍説18・中共軍は中条山戦役に参加していないのに参加したかのように主張している』

    中条山戦役とは、1941年5月山西省南部の中条山戦区で行われた戦闘で約1ヶ月間続き結果、中国軍が惨敗を喫した戦いです。中国側では晋南会戦とも呼ばれ、日側では中原会戦や百号作戦などとも呼ばれます。 戦ったのは、国民党軍第1戦区(司令長官・衛立煌)約20万、日軍第1軍約10万です(諸説あり)。 もともと、黄河北岸の山西省南部には、日中戦争緒戦時の敗残部隊とその後の増援部隊を合わせた10万人以上の国民党軍部隊が立てこもり、日軍による10数回の攻撃にも耐えて日軍3個師団以上をこの地に誘引していました。 1940年8月の八路軍による百団大戦に手を焼いた日軍は、小部隊での遊撃戦術をとる八路軍に対処する必要を痛感しており、そのためには高度分散配置をさらに小部隊化する必要がありました。しかし、あまりに小部隊化すれば、今度は敵の格的な正規軍に対応ができなくなります。この点で最も懸念されたのが、黄

  • 『珍説16・日中戦争中、華南遊撃隊は存在しなかった。』

    これはメジャーな珍説ではありませんが、反共イデオロギーにどっぷり漬かった「抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか」というの中で著者・謝幼田が言っている珍説です。 謝幼田かそれとも訳者の坂井臣之助によるものか定かではありませんが、とにかくよほど毛沢東や中国共産党が嫌いなようで、このは都合のいい資料・事実のみのトリミングはもちろん、資料の解釈も曲解・捻じ曲げのオンパレードで、読んでてむしろ痛快さすら感じます。 このからの珍説はいくつも取れそうですが、私の興味にしたがってひとつだけ挙げてみたのがこれです。 【珍説】 中共の指導する華南の遊撃隊なるものは、今日にいたるも日の作戦記録には全く見当たらないのだが、葉はここで、この遊撃隊が日軍の二二パーセントに抵抗・反撃したと言い張っている。 抗日戦争中、中国共産党は何をしていたか―覆い隠された歴史の真実/謝 幼田 (P218) 【事実】 要は

  • 『珍説13・日本軍は中国軍には負けていない』

    【珍説】 日軍は中国軍には負けていない、というのは反中バカに限らず、よく聞かれる言説です。 http://www.seki-hajime.net/01jihyo0029.html 以下述べることは、戦史を読めば簡単に分かることだが、旧日軍はどこかの軍と違い兵器を安易に遺棄したりはしない。負けて敗走し、軍としての統制がとれなくなった場合に、遺棄した例はある。しかし、旧日軍は中国大陸では負けていない。小戦闘で負けた例はあるが、大きな戦いでは一度も敗れていない。中国大陸では、旧日軍は健在だったが、ポツダム宣言の受諾による東京からの命令で、敗戦を受け入れたのだ。「天皇陛下をお迎えし、大陸で戦争を続けよう」と言った将軍さえいたという。 http://www5e.biglobe.ne.jp/~aso-org/page112.htm > 中国は結果的に戦勝国になった。では中国軍が日軍に勝ったの

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