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ブックマーク / iincho.hatenablog.com (7)

  • 表現したい人と表現を見てくれる人のこの不均衡、あるいはtwitterのちょっと後ろ向きな活用法 - いいんちょさんのありゃあブログ

    表現することの敷居はどんどん低くなっている。 2000年代、ブロードバンド化によって大量の情報が個人で送れるようになり、またその手段も形式化、簡素化され、表現することとそれを大多数の人のもとに届けることは、もはやなんら難しいことではなくなってきている。梅田望夫がその著書で述べた「総表現社会」というのは、ほぼ実現したといっていい。かつて、マスメディアに「独占」されていた表現は解放され、もはや「だれでも表現ができる」という社会が到来したのだ。 にもかかわらず、この状態は同時に一種の「痛々しさ」のようなものを我々が抱いているとしたら、それはなぜだろう。 ◆ それは、「表現を受容する人」より「表現する人」の方が、実は総量を上回っていた、という事実からくる感覚ではないかと、最近思う。 そのことは文芸誌にまつわるあるジョークに象徴されている。出版不況のなか、苦境に立つある老舗の文芸誌の主催する有名な文

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  • 究極の<オッサン>を目撃した - いいんちょさんのありゃあブログ

    <オッサン>というのはどうやって定義できるだろうか、とオッサン予備軍である者として考えることがある。どうなってしまえばオッサンになってしまうのか。いろいろな定義があるだろう。枕からお父さんの臭いが出始めただの、飲店での出されたおしぼりで顔面をゴシゴシやるのに躊躇なくなったらとか、人それぞれかもしれない。 ここで独断と偏見をもって<オッサン>を定義させてもらうと、それは意識の針がある方に振り切れてしまうことに他ならない。どういうことか。 □ 人はだれしも、<視る私>と<視られる私>とに分裂している。物質としてこの世に存在する以上、だれも<視る私>だけに安住してはいられない。面と向かっている以上は、<視られる私>であることも甘んじて受け入れなければならない。 ここで大切なのは<視る私>と<視られる私>の、その両輪にどのような比重で意識を持つかということだ。これにはおそらくジェンダーバイアスが

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  • 人はいつ「終わる」のか - いいんちょさんのありゃあブログ

    最近、あるの中である意味すごく「怖い」箇所を読んだ。 それは、西武百貨店の元経営者でパルコやセゾングループも創設した辻井喬(=堤清二)と、社会学者でフェミニストの上野千鶴子の対談、『ポスト消費社会のゆくえ』にてだ。 それは今では考えられないくらい、百貨店が消費者だけでなく大衆文化を牽引しようという気概があった時代、渋谷に西武百貨店やパルコが建ち例の糸井重里らが手がけたコピーで行け行けどんどんだった時代の話だ。 日の百貨店では今でも美術展というのを開催されているみたいだけれど、あれは百貨店発祥の地の欧州ではあり得ない話で、これもモノを売るだけでなく消費者マインドを文化的に啓蒙していこうとした辻井さんの発案だったという。そんな美術展を百貨店内で始めたころについての対話の箇所。 上野 (中略)ベンチャービジネスのなかには当たりハズレがあって、現代美術ははずれるとただのガラクタですね。 辻井

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  • “視線のすれ違い”があるところにこそ相思相愛があるじゃないだろか仮説 - いいんちょさんのありゃあブログ

    好きな人を“見る男性”と“見ない女性” 職場や学校など、ある特定の共同体内で男が片思いをしている場合、たいていそれは視線の方向によってわかる。要はその対象となる人を穴があくほど、とことん見るのである。相手の子の一挙手一投足を、ああかわゆいな、きれいだな好きだなと、目で見て愛でて楽しむのだ。 キモイと罵るな、たぶんみんなそれをやってるんだから。 しかしこの習性みたいなものが、女の子に対してもそのまま適応するのかというと、そうではない。それを最近女の子から聞いて思った。 女の子に片思いの相手がいる場合、それは相手を「見ない」という行動で表れる。もちろん見たくないことはないだろうけれど、ジロジロ相手を見てしまうと下手すれば自分が好きなことを相手にバレてしまうかもしれない。そういった恐れから、逆に相手のことを不自然なほど見ないという習性になって具現化するというのだ。 ここらへん、もちろん男にも自分

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  • タモリと村上春樹をつなぐもの - いいんちょさんのありゃあブログ

    唐突ですが今日の僕の昼、ロー×ンで買った「黒ごまとチーズクリームのパン」の中にて、驚くべきことが巻き起こっていました。 クリームかたよりすぎです。 なんということでしょう。クリームが、クリームパンに欠かすことのできない肝心のクリームがこんな辺鄙な地にまで追いやられているのです。クリームパンを買う者、当たり前ですがパンの中心、メインストリームにこそクリームが凝縮されているだろうと予想するもの。いや、というかそんなこと予想するまでもなく、生まれてこの方20数年、右や左に多少ずれていたとしても、まさかここまでパンの端っこに追いやられたクリームは、今日まで見たことなかったのです。ほら、もう少しでパン生地からむにゅっとはみ出るところでした。もしかすると、はみ出ていたら店頭には出回っていなかったのかも知れません。 てなわけで、あまりの物珍しさにべる手をとめ一枚写メを撮ってしまいました。 しかしここ

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  • 恋愛できない人がつらいのは恋愛ができないからではない - いいんちょさんのありゃあブログ

    遅ればせながら、最近こんな新書を読んだ。 セックス格差社会 恋愛貧者 結婚難民はなぜ増えるのか? (宝島社新書) 作者: 門倉貴史出版社/メーカー: 宝島社発売日: 2008/11/10メディア: 新書購入: 3人 クリック: 315回この商品を含むブログ (28件) を見る 各章様々な「格差」を論じているのだが、疑問に思った箇所がある。 それは第一章冒頭、著者によれば結婚に際して女性が男性に希望する年収と、実際にそれに見合った年収を稼ぐことのできる男性の数にギャップが生まれている、というのだ。 総務省の『就業構造基調査(07年)』によると、有業で年収が400万円未満の独身男性の数は、254万4900人となっている。この人たちは、独身女性の収入最低ラインをクリアしていないために結婚できない。 女性については総務省『国勢調査(05年)』によると、25歳から34歳の未婚女性の数は、387万1

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  • 情報格差ってなんだろう - いいんちょさんのありゃあブログ

    つい先日、教育テレビの高校講座「情報」を眺めていた。それはたまたま最終回だったのだけれど、村落に居住するあるおばあちゃんを題材にして情報格差の問題を扱っていた。その地域では自治体がネット利用を促進するようになり、そのおばあちゃんもネットを農業に活用できるようになったから大変便利です、とカメラに向かって満面の笑みをたたえていた。 この「情報格差の問題」に僕は、どうも解せないところがある。 情報へのアクセス性についての格差がある、そのことを認めるのにやぶさかではない。でもそれを是正されるべき「問題」として扱うとなると、僕はすこしわからなくなってくる。 まずその前提として格差問題一般って何なのだろうか?格差というのはひとつの状態であって、それが「格差問題」となるにはきっと、なんらかの条件があるはずだ。 そこで考えてみるに、 一つは、格差下層にいる人々が下層にいることで不利益を被っている、というこ

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