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『かぐや姫の物語』について「物語とは主人公の成長を描くもの」という観点からエントリを書いてみたので、これを補助線に、長年『天空の城ラピュタ』について持っている持論について書いてみたい。(ネタバレあり) 『天空の城ラピュタ』は宮﨑駿の作品の中で一番好きだ。最高傑作だと思っている。と同時に、作劇としてかなり興味深い手法を取っている。 主人公はシータとパズーという少女と少年。だが、作品をよく見てみると彼らは成長していない。「成長していない」と書くとなんだかネガティブに響くが、要は登場時から価値観が確立した人物、成熟した大人として登場するので、成長する必要があまりないのだ。 クライマックスを見てみよう。パズーは身を捨ててムスカとの決闘に挑む。死を覚悟してシータを助けに行くという勇敢な行動だが、よくよく考えてみるとパズーは序盤から同じような行動を取り続けている。空から降ってきたシータを庇護し、海賊や
高畑勲監督の『かぐや姫の物語』を見てきた。傑作だと思う。途中から胸が締めつけられるように苦しくて、鑑賞後から今に至るまで映画が頭から離れない。見ていて非常に辛い、心底辛すぎる悲劇だ。そしてこの悲劇を成立させるにあたり、かなり変わったプロットを採用している。以下、その辺りについて書く。(ネタバレあり) いきなり話題は変わるが、いわゆる王道の、正統派のエンタテインメントとはなにか。それは「主人公が成長・変化する姿を描く過程」である。脚本の教科書なんかを読むと「子供が大人になる過程」などとも書かれている。 『かぐや姫の物語』と非常に対照的な映画が、オードリー・ヘップバーンの『ローマの休日』だ。ヘップバーン演じるアン少女は、王室に生まれた己の境遇に反発し、滞在先のローマで逃げ出して放蕩する。そしてあれやこれやを経験し、最終的には自らの立場を受け入れる。つまり、子供から大人へと変化する。 大人になる
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