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ブックマーク / mercamun.exblog.jp (4)

  • 精神医学はニセ科学か? 内海医師のニセ科学批判。 | 社会学玄論

    ニセ科学とは、科学でないのに科学を装うことで、人を騙す学説や商品のことをいう。さらに、そのような学説や商品をニセ科学として摘発し、クレーム申し立てをすることをニセ科学批判と呼ぶ。ホメオパシー、マイナスイオン、水からの伝言、血液型性格判断などがニセ科学批判の対象とされ、ニセ科学批判運動が盛んにネット上を中心に行われてきた。そして、対抗レトリックとしてニセ科学批判批判も形成され、ネット議論を盛り上げてきた。 ニセ科学批判はしばしば「水からの伝言」のような非科学と簡単に分かる対象を標的にばかりしているという批判を受けてきていたが、今回、それを覆すようなニセ科学批判が現れた。それが、医師内海聡氏による精神医学(特に薬物療法)に対するニセ科学批判である。同氏の著作「精神科医は今日も、やりたい放題」における精神医学に対する批判は、ニセ科学批判という言葉は使用していないものの、内容はニセ科学批判そのもの

    精神医学はニセ科学か? 内海医師のニセ科学批判。 | 社会学玄論
  • 科学が扱えない領域について | 社会学玄論

    何でも科学の対象にできると考えている方がおられるので、ここで釘を刺しておきたい。もし森羅万象を科学は対象とすることが可能であると考えるのなら、それこそ科学万能主義と言われるものになってしまう。科学は、自己の限界設定ができてはじめてその意味を獲得する。 基的に、反証可能性のない対象については、科学の対象ではない。従って、「神は存在する」や「死後も霊魂は存在する」という反証不可能な命題にかかわる対象については、科学の外にある。神や霊魂は、科学の対象外であり、科学的に扱うこと自体がナンセンスなのである。 社会学では、世界の根源的偶然性については、科学の対象外であり、宗教のみが処理することが可能だと考える。世界の根源的偶然性とは、例えばこういうことである。交通事故にあってある人間が死んだとする。死亡の原因は科学的(医学的)には説明がつく。しかし、なぜこの人だけがたまたま交通事故にあって死なないと

    科学が扱えない領域について | 社会学玄論
  • 社会学はコード化された反省的判断力 | 社会学玄論

    カントは、人間の能力を、因果律に支配された世界を認識する悟性(純粋理性)と自由意志の世界を認識する理性(実践理性)に分けた。悟性の対象は現象世界であり、自然科学の領域に対応し、理性の対象は質(叡智界)であり、道徳学・倫理学の領域が対応するということになる。つまり、事実判断と道徳判断の区別を厳しく線引きしたのである。カントは、道徳判断は、科学の対象外という哲学的根拠を見いだしたわけである。 さて、しかし、この二つを統合する能力として、カントはさらに判断力という能力を持ち出してくる。判断力とは、主語と述語を結合する能力のことである。判断力は、規定的判断力と反省的判断力に区別できるという。 規定的判断力は、「これは何々である」という命題で表され、主語たる対象に述語が属性として含まれていることを意味する。つまり、対象に真理が宿るということであり、客観的であり、自然科学の判断は全て規定的判断力とい

    社会学はコード化された反省的判断力 | 社会学玄論
    Naruhodius
    Naruhodius 2009/11/30
    ほう
  • 厳罰化に科学的根拠はいらない。 | 社会学玄論

    厳罰化の犯罪抑止効果の科学的根拠を吟味する行動科学の理論として、心理学の強化理論と社会学の合理的選択理論について述べたが、二つの理論の原理的差異について述べておきたい。 人間の行動を分析・予測する理論としてどちらの理論が相応しいのかという点にもかかわってくる。 強化理論においては、スキナーのネズミの箱のように動物実験に基礎をおいている側面が強く、理性的選択による行動ではなく、習慣的な学習的行動として人間の行動を捉える。 プラスの刺激としての報酬を与えると、その行動は頻繁に発生し、強化され、マイナスの刺激としての罰則を与えると、その行動は減少するというわけである。この強化理論の行動法則は、動物のみならず、人間にも適用できるというわけであり、幼児の躾などにも応用できるのである。罰則によってマイナスの刺激を与えると、それだけその行動は避けるというわけである。 しかし、学習するためには、一度、その

    厳罰化に科学的根拠はいらない。 | 社会学玄論
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