夢を尊重せよ。われらの陸海軍は皇国(こうこく)三千年の夢を実現しつつあるではないか。偉大なる夢と月々火水木金々の努力、斯(か)くして偉大なる現実は生れるのだ。夢無くして科学は無い。科学の進歩は天才の夢に負う所如何に多大であるか。科学史の毎頁(まいページ)がこれを証明している。現実に先行する夢なくして現実の進歩はない。今や完全なる勝利か、然(しか)らずんば国民一人残らずの死あるのみである。眼前の現実に跼蹐(きょくせき)して、徒(いたず)らに物資の不自由を喞(かこ)つことをやめよ。卑小なる保身を離れて、偉大なる夢を抱け。私は一つの夢を語ろうとする。無論、昔日(せきじつ)の悪夢を語るのではない。昔日の悪夢は悉(ことごと)くかなぐり捨て、私の力の許す限りに於(おい)て、大いなる正夢を語ろうとするのである。 世界の国という国がその総力をかたむけ、大地球の全面をゆるがして戦いつつある時、日本国の威力が
左官の八は、裏を返して縫ひ直して、継(つぎ)の上に継を当てた絆纏(はんてん)を着て、千駄(せんだ)ヶ谷(や)の停車場脇(わき)の坂の下に、改札口からさす明(あかり)を浴びてぼんやり立つてゐた。午後八時頃でもあつたらう。 八が頭の中は混沌(こんとん)としてゐる。飲みたい酒の飲まれない苦痛が、最も強い感情であつて、それが悟性と意志とを殆(ほとん)ど全く麻痺(まひ)させてゐる。 八の頭の中では、空想が或る光景を画(ゑが)き出す。土間の隅(すみ)に大きな水船(みづぶね)があつて、綺麗(きれい)な水がなみなみと湛へてある。水道の口に嵌(は)めたゴム管から、水がちよろちよろとその中に落ちてゐる。水の上には小さい樽が二つ三つ浮いてゐる。水船のある所の上に棚が弔(つ)つてあつて、そこにコツプが伏せてある。そのコツプがはつきり目の前にあるやうに思はれるので、八はも少しで手をさし伸べて取らうとする処であつた。
愈(いよいよ)東京を発つと云う日に、長野草風氏が話しに来た。聞けば長野氏も半月程後には、支那旅行に出かける心算(つもり)だそうである。その時長野氏は深切にも船酔いの妙薬を教えてくれた。が、門司から船に乗れば、二昼夜経つか経たない内に、すぐもう上海(シャンハイ)へ着いてしまう。高が二昼夜ばかりの航海に、船酔いの薬なぞを携帯するようじゃ、長野氏の臆病も知るべしである。――こう思った私は、三月二十一日の午後、筑後丸の舷梯に登る時にも、雨風に浪立った港内を見ながら、再びわが長野草風画伯の海に怯(きょう)なる事を気の毒に思った。 処が故人を軽蔑した罰には、船が玄海にかかると同時に、見る見る海が荒れ初めた。同じ船室に当った馬杉(ますぎ)君と、上甲板の籐椅子に腰をかけていると、舷側にぶつかる浪の水沫(しぶき)が、時々頭の上へも降りかかって来る。海は勿論まっ白になって、底が轟々(ごうごう)煮え返っている。
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く