人間は手段として存在している。他人の手段として有用性を発揮することで存在出来る。あなたに「本命の恋人」と「やり捨てる恋人」がいるとして、本命は本当に好きだから手段ではないと強弁するかもしれないが、これにしても理想に適合しているから用があるのだ。何らかの理由で理想の適合性が破綻したなら、真実の愛も目出度く消え去るし、用済みということになるだろう。つまり人間存在はすべて有用性から説明されるべきなのである。用済みになって掌替えしというのは、多くの人が経験することである。近衛文麿は12歳の時に父親を亡くして周囲の態度が変わったことで、ずいぶん疑心暗鬼な性格になったとされる。有用性が無くなった瞬間に、先日まで媚びていた連中の顔つきが変貌し「こいつは用済み」という態度になるのは当然である。馬齢を重ねて人生の苦みを味わえば誰もが気づく仕組みなのだが、経験するまでわからないようである。チヤホヤされるという