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ブックマーク / booklog.kinokuniya.co.jp (9)

  • 『知能の原理:身体性に基づく構成論的アプローチ』R・ファイファー&J・ボンガード(共立出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「身体性と結びついた知能」 書は、知能を「身体性」との関わりから問おうとする研究書である。著者たちは、思考が行われる場を脳の外に、具体的には、身体と環境の接面において見ようとする。彼らによれば、空間的認知や社会的認知はもちろん、(これはジョージ・レイコフの仮説だが)数学の実数や集合の概念さえも、身体性と無縁ではいられない。身体と環境の相互作用抜きでは、実は、認知的なカテゴリも成立し得ないというわけだ。そのような観点から、著者たちは、特に近年のロボティクス(ロボット工学)の知見に目配りしながら、知能の新しいありかを探ろうとしている。 わかりやすいところで言えば、たとえば、昆虫の歩行においては、脚の動きを全面的にコントロールする中枢が存在しない。にもかかわらず、昆虫がスムースに歩くことができるのは、昆虫は、周囲の環境と生体の構造から来る物理的拘束をうまく利用して、脚と胴

    『知能の原理:身体性に基づく構成論的アプローチ』R・ファイファー&J・ボンガード(共立出版) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Nihonjin
    Nihonjin 2016/08/18
    「身体と環境の自動的な相互作用・調整作用をあてにする、この種の「チープデザイン」が、情報処理のコストを大幅に押し下げている。著者たちが「知能」を見出すのは、まさにこの地点においてである」
  • 『恥辱』J・M・クッツェー、鴻巣友季子訳(早川書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 →紀伊國屋書店で購入 「ジャンクフードの意地」 春の「英語文学の古典」シリーズ第二弾。 今回は3月に来日予定のJ・M・クッツェーの『恥辱』(Disgrace)をとりあげたい。クッツェーはこの作品で二度目のブッカー賞を受賞しているが、同じ作家が同賞を二度受けたのは史上はじめて。その後ノーベル賞も受賞し、折からの「ポスコロ・ブーム」もあって90年代からゼロ年代にかけてのクッツェーは「もっとも語られる現代作家」の一人となった。 というわけで『恥辱』は、オーウェルの『1984』やサリンジャーの『ライ麦畑で捕まえて』と同じく、あまりに有名でつい読む前から読んだ気になってしまう危険な作品のひとつでもある。たとえば私たちはすでに、『恥辱』の主人公がセクハラのために大学教員の職を追われるらしいことを知っている。なるほど、キャンパスものか…。PCものか…。そして舞台が南アフリカと来れば

    『恥辱』J・M・クッツェー、鴻巣友季子訳(早川書房) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
    Nihonjin
    Nihonjin 2013/03/20
    「「荒涼」のど真ん中に彼の一人娘ルーシーが残っていた。ルーシーはもはや「性」さえも必要とせず(…)辛抱強く生きている。使用人に裏切られ、強盗に遭って強姦され、犯人の子供まで身ごもっても、決して逆上せず」
  • 『ヤリチン専門学校―ゼロ年代のモテ技術』尾谷 幸憲(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「男性側から「性愛至上主義」の崩壊を描いたルポルタージュ」 書は、かの「東スポ」こと「東京スポーツ」紙に連載された記事が元になったものであり、その点からも、半分以上は「ネタ」として差し引きつつながら、面白がって読み進めるべきなのだろう。だが、それでもなかなか他書が踏み込めていないような現状が描かれた、興味深いルポルタージュとして評価に値するものとして紹介したい。 まえがきでも記されているように、この来の目的は、「彼ら(=カリスマナンパ師。※評者補足)が日々使っているモテ技術をあますことなく紹介していく」ことにあったのであり、いわゆるナンパ指南術的なマニュアルを意図して行われたインタビュー集だったのだという。 ところが興味深いことに、その意図とは裏腹に、むしろそうした高等なテクニックを必要としたような、「80年代あるいは90年代的な」性愛至上主義的な文化がすで

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    Nihonjin
    Nihonjin 2012/07/09
    たしか、この著者は取材過程で学んだことを実践した結果、40代にもかかわらず20代の彼女ができたとか書いてあったような(別れたらしいが)。うろ覚え。/「家具のような男がモテる」と宮台真司が言ってたのを思い出した
  • 『安部公房の都市』苅部直(講談社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「安部公房は苦手ですか?」 安部公房が苦手、あるいは手に取ったことがないという人にこそ読んでもらいたいだ。よくできた評論というのはたいていそうなのだが、書もこちらに何かを強制するということがない。「まあ、こんな話もあるわけですよ。別に無理して聞かなくてもいいけどね」というだけで、「是非、公房のファンになれ!」とも言われないし、「しっかり読め!」「わかってないな、バカ!」と叱られることもない。小説の粗筋だって適当に聞き流していればいいようだし、むしろ安部公房なんか忘れてほかのことを考えたっていい。それで油断していると、いつの間にか著者の術中にはまっている。 タイトルにあるように書の切り口は「都市」である。「あ、来た」と警戒する人もいるかもしれない。構造だの資だのといったナンカイな用語が頻出して、偉大なる安部公房の像が立派な文明論的台座に載せられるのではないか、と

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  • 『現場主義の知的生産法』関満博(ちくま新書) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「今だから読みたい、あくまでアナログな仕事術の書は、明星大学経済学部教授で一橋大学名誉教授の関満博氏が、その仕事術(=研究の作法)の極意を記して2002年にちくま新書から刊行したものである。 関氏といえば、日の製造業、それも地方の中小企業の実態に精通していることで知られる経営学者である。奇しくも先ごろの震災の折は、岩手県釜石市に講演のために滞在中であったといい、その後も東北の復興とそのために地方の製造業の再建が必要であることを訴え続けている。 そんな関氏を、専門は違えども私は尊敬してきた。何よりもすごいと思うのはその著作の多さだ。10年前の大学院生時代に書と出会い、まずもって驚いたのは、「エイジシュート」(P142)という言葉だ。これは、著作の数が自身の年齢に追いつくことをいう。 単純に数字の大きさだけを言うならば、若手研究者のほうが有利にも思えるが、論文

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  • 『二十世紀の法思想』中山竜一(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「法と哲学の結びつき」 二〇世紀の基的な法学の流れを追った書物だが、法哲学というよりも、法的な思考の枠組みが、哲学に大きな影響をうけていることが実感できる。著者とともに「どんな法解釈も何らかの哲学と結びつくものであらねばならないこと、あるいは逆に、法哲学的省察という次元をまったく欠いた法解釈など空虚以外の何ものでもない」(p.217)と感じざるをえない。 第一章で紹介されるケルゼンの純粋法学は、新カント派のヘルマン・コーエンの認識哲学に着想をえて、「である」という事実と「べきである」という当為の厳格な区別に依拠したもの(p.6)だし、ファンヒンガーの「かのように」哲学の影響も明確なものである。この規範と事実の峻別こそが純粋法学の根幹であり、そこにこの法学の限界もあることになる。この区別にこだわりすぎると、「法的実践に対する無力」(p.22)がもたらされるからだ。 第

    『二十世紀の法思想』中山竜一(岩波書店) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG
  • 『わが輩は「男の娘」である!』いがらし奈波(実業之日本社) - 書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

    →紀伊國屋書店で購入 「『ジェンダー・トラブル』よりも刺激的、『妄想少女オタク系』以上にリアル」 「男の娘」とは、「2次元用語であり、女の子のように可愛い女装少年を指す」言葉であり、書は「無謀にもそんな次元の壁を越えようと日々努力する、二十代後半の、今でも「少年ジャ○プ」を愛読しているひとりの男の話」である(P5)。 その「男」とは、実は、名作『キャンディ・キャンディ』で知られる漫画家いがらしゆみこ氏の息子であり、元ジャニーズJrでもあるという、いがらし奈波氏のことである。 書は、エッセイ風のマンガ仕立てで、元々小さいころから女装に関心のあったいがらし氏が、やがてオタク趣味の彼女と付き合うようになる中で、彼女の服を借りて格的に女装にのめりこむようになり、その後、様々な人と出会う中で、現在の自分の立場を確立までを描いた著作である。 マンガ仕立てで非常に読みやすいが、その内容は刺激的であ

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  • 文芸評論家・加藤弘一の書評ブログ : 2011年06月28日

    加藤弘一 (かとう・こういち) 文芸評論家 1954年埼玉県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。文芸評論家。現在、東海大学文学部文芸創作科講師。 石川淳と安部公房に傾倒し、目下、安部公房論を準備している。 1995年から、イ ンターネットで文芸サイト「ほら貝」を主宰。 http://www.horagai.com 著書に『石川淳』(筑摩書房)、『電脳社会の日語』(文春新書)、『図解雑学 文字コード』(ナツメ社)がある。 →bookwebで購入 書はジュネットがテクスト論三部作の後、1991年に出した文学論集である。表題にある「フィクション」とはもちろん虚構のことだが、「ディクション」diction とは語り方、言葉づかい、措辞をあらわす普通名詞である。 『虚構と語り方』と訳そうと思えば訳せるでジュネットは『アルシテクスト序説』で指摘されていた抒情詩がアリストテレスの『詩学』の基準では芸

  • 高山宏の読んで生き、書いて死ぬ : 『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』 ジョン・ノイバウアー[著] 原研二[訳] (ありな書房)

    →紀伊國屋書店で購入 『アムバルワリア』を読んだら次にすること チェスで人がコンピュータに勝てないと判ってからどれくらい経つか。感情や情念といった言葉を持ち出して、人にしか書けない詩があるという人々はなお多く、現に「詩」は相変わらずいっぱい書かれている。しかし、チェスの棋譜を構成していくのと同じ原理が詩をつくるとすれば、人は詩作でもコンピュータに勝てないことが早晩判るはずだ。そう考える詩学がある。チェスと詩学が全く違わないことを、作家ボルヘスは『伝奇集』中の有名な「『ドン・キホーテ』の作者、ピエール・メナール」に宣言した。 ニーチェが「感情の冗舌に抗して」成り立つとした文学観が存在するが、この言い分をキャッチフレーズに掲げたロマニスト、グスタフ・ルネ・ホッケの我らがバイブルたるべき『文学におけるマニエリスム』によれば、「マニエリスム」という文学観がそれで、読むほどに、ヨーロッパで成立した詩

    高山宏の読んで生き、書いて死ぬ : 『アルス・コンビナトリア―象徴主義と記号論理学』 ジョン・ノイバウアー[著] 原研二[訳] (ありな書房)
    Nihonjin
    Nihonjin 2011/02/08
    経験的に、感情は記号で制御されて、初めてうまく伝わる気がする。「感情の赴くまま書いた」なんてものは、ほとんどは読めやしない。少なくとも、禁欲すべき。
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