何か事が起こるたびに、数か月後の誌面の姿を思うことがある。あの出来事も、あの事件も、これまでと同様に誰かの歌に詠まれていることだろう。そしてこの予測はほぼ当たる。いわゆる社会詠、時事詠と呼ばれる歌群は、いつの世も詠まれ、読まれている。その繰り返しのなかに、嫌でも放り込まれてゆく。 そうした作歌行為を、愚かだと思っていた時期が私にもあった。今でも少しだけ思っている節がある。自分や誰かの作品がコミュニケーション的な言語モデルのなかでのみ読解され、「分かる/分からない」の軸や題材への接近の切実さに気安く読みが収斂してゆくさまを見ると、むずむずと不快な気持ちが湧き上がってくる。あなたに分かってもらうためにこの作品を書いたわけではありません、ほんとうの思いなんて書き表せるはずがありませんと、この世の全ての短歌に注を付けて回りたいと思うことさえある。それは〈詠む〉者であると同時に〈読む〉者であるかぎり