バングラデシュの事件について、NHKの土曜日の朝の解説番組を見ていたら、やはり日本での議論の仕方は、やはりテロ事件に対する反応としては、全般に見当はずれであった。 日本の議論の仕方で面白いのは、殺された側である日本社会の側が、反射的に「あれが悪かったのではないか」「これが悪かったのではないか」と忖度すること。 いやこれ、毎回毎回繰り返されると、文化人類学的な対象として、面白いと思う。学校のいじめで、「いじめられた方も何が悪かったか考えろ」という「空気」を教師と学生の両方が共有して、もっぱら被害者の方を「教室の和を乱す原因を作った」と追い詰めていく構図も、ここから来ているのではないか。 和が乱れる事件があったら、まず被害者側に「落ち度がなかったか」を問い、改めさせる。それによって将来にまた和が乱れることがないことを祈る。それが日本の「平和」なのだろう。 イスラーム教という神の絶対規範を基準に
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