新海誠作品は野菜の切り方がいい。たとえば、『言の葉の庭』のトマトとゴーヤを手際よく切って盛り付けていくシーン。タンタンタン、とリズミカルに切っていくのが新海流。 ここで作っているのは冷やし中華。思春期の“苦み”を描く作家らしく、盛り付けの野菜も苦みで選ぶのか、と当時は穿った見方をしてしまったのだけど、真相は奥さんの作るものを参考にしたようで。「新海さんちの冷やし中華」だったのだ。 ところで、新海アニメの「食」はちょっと変わった特徴を持っている。食卓に「不在」が並ぶのだ。父親か母親、もしくは両方いない状態で食事をすることが多く、一家団欒に不在が何気なく横たわっている(近作はそれが当たり前になってきている気もする)。最新作『君の名は。』でもそうだし、『言の葉の庭』や『星を追う子ども』を振り返っても同じ。食卓の風景にも新海の代名詞である「喪失感」が入り込んでいるわけだ。例外はショートフィルム・N
薄い布で包んだ鋭利な刃物が首筋に当てられようとしている。 映画『聲の形』の切迫感をたとえるなら、こんな表現になるだろうか。物語の冒頭部からひどく没入的だ。西宮硝子のイジメられている様が息苦しかった。教師の対応に嫌な汗をかいた。そして、自分がもしあのクラスにいたらと考えて、心拍数が上がった。ディスコミュニケーションの説得性が嫌らしい。京都アニメーション得意の実写的レンズ選択と撮影による奥行きの効果。エッジの効いたカッティング。そして、ピンと張り詰めた「物質」としての音の緊張感。そのどれもが「伝わらないことを伝える」ために働いている。感情を乗せて、人間を描くために、機能している。 誤解を恐れず言うならば、山田尚子監督が以前口にしていた『哀しみのベラドンナ』と同種の映画かもしれないな、と思った。かつて『哀しみのベラドンナ』の山本暎一監督はどんなに抑圧され、疎外されても心があるかぎり(それが妄想で
ティエリー・トグルドーの憂鬱 LA LOI DU MARCHE 監督 ステファヌ・ブリゼ 出演 ヴァンサン・ランドン/カリーヌ・デ・ミルベック/マチュー・シャレール ナンバー 208 批評 ネタばれ注意! 結末に触れています 長年機械相手の現場で働いてきたのだろう、危険に敏感な彼の目つきは人を寄せ付けない鋭さがある。しかし、対人関係で愛想の良さを求められる求職活動では気難しい印象しか与えない。模擬面接で酷評されて苦虫をかみつぶした顔が主人公の苦境を象徴する。物語は、失業中の労働者に降りかかる不運のスパイラルを描く。未経験者は採用されず、手当は減額、トレーラーの売却は交渉決裂、障害者の息子は成績低下……。経営合理化のしわ寄せを食った彼は不満が爆発寸前、それでも家族のために歯を食いしばっている。過当競争の末に富裕層だけが豊かになる21世紀資本主義の最下流で起きている現実を長回しのショットで見
kumonoami プレカリアートユニオン 非正規雇用の駆け込み寺から砦へ 相談はTEL03-6276-1024 info@precariat-union.or.jp
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