タグ

2023年12月23日のブックマーク (3件)

  • ラカンにおいて、精神分析医が - 偽日記@はてなブログ

    ●ラカンにおいて、精神分析医が患者に対してとる位置には三つの段階がある。最初に、「知っていると想定される主体」として、次に「対象a」として、そして最後に「もの」として、患者に対する。それぞれが、象徴的な他者、想像的な他者、現実的な他者、に対応する。最初に、象徴的な他者として患者に想像的な場への退行をうながし、次に想像的な他者として患者を現実的な場へ促す。最後に「もの」としての分析医が、「知っている主体」を患者の無意識へと返すことで、分析は終了する。もとよりこれは理論的な枠組みとしてであって、これが実際に可能なのかどうかは、よく分らないけど。 精神分析は形而上学を否定した。精神分析によれば、真理も正義も理念も、全て失われた「母親との完全な合一」の代替物であるということになる。そして人は、意識(言語)の場にいる限り、このことに永遠に気付かない。だが、この「母親との完全な合一」ということ自体が、

    ラカンにおいて、精神分析医が - 偽日記@はてなブログ
    Reiche
    Reiche 2023/12/23
    >「私」自身もまた、限定され、制約されたたたんなる一つのものとしての身体でしかないことを受け入れるということだろう。
  • Chambre AA チェーホフ三部作(1) 『箱に入った男』

  • シェーラーの哲学的人間学 | 永井俊哉ドットコム

    マックス・シェーラーは、現象学の影響を受けた倫理学者であり、哲学的人間学の提唱者でもある。フッサールは、倫理学にはあまり興味を持たなかったので、現象学的な直観主義が、倫理学に何をもたらすのかを、マックス・シェーラーの提唱する実質的価値倫理学で検証し、彼の哲学的人間学の成否を検討したい。[1] 1. 現象学的倫理学の基礎的構図シェーラーの倫理学を検討する前に、シェーラーのメタ倫理学(倫理学に対する哲学的な認識論)を検討しよう。 1.1. 価値と知の関係シェーラーは、学位論文(Dissertation)において「厳密に言えば、《倫理的知》などというものはない。知はそれ自体において決して倫理的でない。あるのはただ倫理的なものについての知である[2]」と主張し、主著の『倫理学における形式主義と実質的価値倫理学』においても、新カント学派を批判しつつ、「論理学は、それが《真理》という価値を扱わなければ

    シェーラーの哲学的人間学 | 永井俊哉ドットコム
    Reiche
    Reiche 2023/12/23
    ルサンチマン