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CNhistoryに関するShalieのブックマーク (6)

  • 歴史書「亡国の王」、販売禁止に 明最後の皇帝、習氏連想か―中国:時事ドットコム

    歴史書「亡国の王」、販売禁止に 明最後の皇帝、習氏連想か―中国 2023年10月17日20時33分配信 中国の習近平国家主席=9月28日、北京(AFP時事) 【上海時事】中国で9月に出版された明王朝の最後の皇帝、崇禎帝に関する歴史書が17日までに回収処分となり、事実上の販売禁止となった。出版取次業者は「印刷の問題のため」と説明しているが、書名の「勤政的亡国君(勤勉な亡国の王)」が習近平国家主席を連想させかねないと判断し、禁書扱いにした可能性がある。インターネット上でも書名を検索できなくなった。 中国、陸上選手の写真検閲 番号の並びが「64」、天安門想起か―アジア大会 著者は明時代を専門とする歴史家の陳梧桐氏(今年5月に死去)。同書は崇禎帝に焦点を当て、17世紀の明の滅亡に至る過程を描いた。香港紙・明報によれば、同書は2016年に「崇禎往事」の書名で既に出版されていたという。当時は禁書に指定

    歴史書「亡国の王」、販売禁止に 明最後の皇帝、習氏連想か―中国:時事ドットコム
    Shalie
    Shalie 2023/10/18
    この本面白そう。"9月の再販に当たり、「愚策に次ぐ愚策、勤勉な王ほど国は滅びる」の宣伝文が付け加えられており、これも当局を刺激したとみられる"
  • 「皇帝の嫡子を産んだ母は殺せ」「前皇帝も一族も殺せ」1600年前の"危ない中国"を知ろう トライアンドエラーをやりすぎて…

    でもよく知られている三国志の物語は、司馬氏の西晋により280年に三国が統一されて幕切れを迎えた……。が、それから遣隋使や遣唐使で知られる7世紀の隋・唐まで、中国史の知識がすっぽり抜け落ちている人も多いのではなかろうか。事実、三国志と隋唐時代に挟まれた約300年間の中国は、目まぐるしく王朝が移り変わる動乱の時代だった。 まずは西晋が内紛で崩壊し、中国北部で異民族の小王朝が乱立(五胡十六国)。やがて鮮卑せんぴ族の北魏ほくぎが台頭して5世紀なかばに華北を統一する。いっぽう中国南部は晋の皇族が亡命政権(東晋)を樹立後、王朝が宋・斉・梁・陳と続いた。北族(遊牧民)の北朝と、漢民族の南朝が対峙たいじする「南北朝時代」である。やがて北朝の系統である隋が中国を再統一した。 北方の遊牧民が、漢人と衝突し、融合した時代 ——今年、日史の世界では清水克行先生の『室町は今日もハードボイルド』(新潮社)が話題

    「皇帝の嫡子を産んだ母は殺せ」「前皇帝も一族も殺せ」1600年前の"危ない中国"を知ろう トライアンドエラーをやりすぎて…
    Shalie
    Shalie 2021/12/02
    "遊牧民だった頃は無関心だったのに「中国人」に変わると中華の統一に欲を出す。初期の中国共産党が、少数民族地域の分離独立権まで認めていたのに、政権が安定すると辺境まで支配したがるようになったのとも通じる"
  • 秦漢時代の万里の長城、大半が漢代に建設と判明

    内モンゴル自治区固陽県にある秦代に造られた石積みの長城の遺跡(2012年5月20日撮影、資料写真)。(c)Xinhua News 【3月14日 Xinhua News】中国内モンゴル自治区の考古学者はこのほど、万里の長城の調査を行い、秦の始皇帝が建設したと伝えられる万里の長城が、実際は大半が漢代に建設されたことを発見した。 【関連記事】万里の長城の初雪 河北 内モンゴル文物考古研究所の張文平(Zhang Wenping)副所長は「現地調査の中で、秦代に建設された長城の区間を探すのは非常に難しいことが分かった。実際のところ、内モンゴル西部の春秋戦国・秦・漢時代の長城のうち、現存する遺跡は主に漢代に建設されたものである」と述べた。 同自治区巴彦淖爾(バヤンノール)市の文化財・考古学専門家、胡延春(Hu Yanchun)氏が説明した長城の分布状況によると、同市には南北方向に長城が4カ所ある。南端

    秦漢時代の万里の長城、大半が漢代に建設と判明
    Shalie
    Shalie 2019/10/25
    "〔秦代には〕山頂に沿って途切れ途切れに建設されるなど完全な防御システムは確立されておらず、漢の武帝時代にようやく東西につながる万里の長城の防御システムが確立した"
  • 「項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史」藤田勝久 著

    紀元前221年、秦帝国は戦国時代を終わらせて中国を統一したが、統一からわずか十五年で滅亡した。なぜこれほど短期間で滅亡したのか、書では秦と、秦を滅ぼす人材を次々と輩出した楚との社会システムの違いに注目して、項羽と劉邦の時代の変化を描いている。 秦帝国滅亡の要因として、第一に始皇帝死後の権力闘争、第二に大規模な土木工事と対外戦争による民衆への負担、第三に急激な統一による統一政策の不備、第四に秦と違う風土を持つ社会に秦の制度を適用させようとしたことによる軋轢、などが挙げられ、特に、第四の「秦から遠方の地方で、風土と習俗が異なる地域社会に不満が蓄積したこと」が大きな問題であったとされる。 戦国時代の楚の制度と秦の制度の比較、「陳勝・呉広の乱」によって建てられた張楚国の体制、項梁・項羽が楚懐王を建てて建国した楚の体制、項梁死後項羽によって築かれる西楚覇王の体制、そして漢王となった劉邦が敷いた秦を

    「項羽と劉邦の時代 秦漢帝国興亡史」藤田勝久 著
    Shalie
    Shalie 2015/08/13
    これは面白そう。"劉邦の勢力沛公グループの体制と社会基盤についても興味深い。…他の勢力と比較して独立した行政機構を備えていた点で大きな違いがあったようだ"
  • 47NEWS(よんななニュース)

    [能登半島地震]新潟県内の住宅被害、全壊が50棟超す 半壊も1000棟超に、大半が新潟市(1月21日時点)

    47NEWS(よんななニュース)
  • 47NEWS(よんななニュース)

    【開票速報】萩生田氏の地元・八王子市長選 午後10時現在、3人が並ぶ 投票率は前回より7.2ポイントアップ

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