1642年、ダライ・ラマ5世はモンゴルの首長グシリ・ハーンの後押しを受け、それまで分裂していたチベットをまとめ、聖俗両界の最高権力者となった。それ以来、チベット人はダライ・ラマ5世を「ゴンサ・チェンポ(最高の統治者)」と呼び、法王の威信ははるか国境を越えて広がった。 ダライ・ラマ5世は、モンゴルとの関係を保ったばかりでなく、清の皇帝たちともつながりを深めた。ダライ・ラマ5世にまだ政治権力がなく、また、漢族が中国を制圧して清朝を興す以前の1639年、ダライ・ラマ5世は、満州の太宗ホンタイジからその都ムクデン(現・瀋陽)に招待された。ダライ・ラマ自身は行くことができずに代理を派遣したところ、代理はホンタイジ皇帝から大変丁重なもてなしを受けた。こうして、ダライ・ラマと清朝皇帝との間にチュ・ユン関係が開かれることになった。 モンゴル諸帝との場合もそうだったが、チベット僧と清朝諸帝の間に中国が介在す