「川中島の合戦」が復刻されるので,川中島古戦場を訪問してみた ライター:徳岡正肇 コーエーテクモゲームスがまだ光栄とテクモという別会社だった(正確に言えば当時の後者はテーカン)時代,光栄がその歴史の第一歩として世に問うたのが「シミュレーションウォーゲーム 川中島の合戦」(以下,川中島の合戦)だった。ときは1981年10月。 この「川中島の合戦」は,当時は染料と工業薬品の販売会社だった光栄社内部に社長の襟川陽一氏自らが設立した(そして事実上襟川夫妻だけの)部門である,「光栄マイコンシステム」で制作され,そして当時の光栄の本業を圧倒的に凌駕する売上をもたらす(参考記事)。 その後も光栄マイコンシステムの快進撃は続き,やがて日本のゲーム史において大きなマイルストーンとなった「信長の野望」を送りだす(1983年)。そしてこれ以降,光栄は“コンピュータゲーム制作会社”として大きく成長していくことにな