宮永スパイ事件(みやながスパイじけん)とは、ソ連軍の情報機関であるGRUが日本の陸上自衛隊に諜報活動を行った事件。ソ連側のスパイの名前からコズロフ事件とも呼ばれる。 情報の受け渡し現場となった紅梅坂 宮永幸久陸将補(少将)は陸軍士官学校卒(54期)の陸上自衛官で、調査学校の副校長も務めたソ連情報の専門家であった。非常に真面目で、学究肌の人物であったという [1]。そんな宮永が再就職の斡旋を求めて1973年(昭和48年)12月にソ連大使館の武官P・I・リバルキンに接触した事から事件は始まる。翌年の1974年(昭和49年)3月にリバルキンから連絡があり、二人は渋谷駅付近で接触した。 初めは中ソ関係について意見を交わすだけであったが、ある時「ソ連は中ソ戦に備える必要がある」として情報協力を要請された宮永は5月に退官すると中国の軍事関連の資料を渡すようになる。始めは公刊情報にコメントを付けて渡す程