ブリヂストンの業績は、四、五年は停滞したが、三井物産が輸出に協力してくれるようになってから、だんだん好転していった。 その後、軍需が盛んになり、支那事変が拡大すると、軍はブリヂストンを全面的に利用した。 ブリヂストンが、いちじるしい成長を見せるようになると、グッドイヤーと並ぶタイヤの大メーカーであるファイアストンから、商標侵害の訴訟を起こされた。 当時、外務省で通商局長の任にあった来栖三郎が、大変心配してくれて、結局、日本の裁判では勝訴になった。 昭和十二年、昭和飛行機に関係した。 同郷の伊藤久米三という工学博士に頼まれての事だったという。伊藤は三菱の技師だったが、航空機会社を設立しようとしていた。航空機は、日本にとって、最も有望な産業だというのである。 ところがアメリカから輸入した工作機械の代金、六十数万円が支払えなくなった。 伊藤は、三井鉱山の牧田環に泣きついて、何とか会社が設立された