ブックマーク / blog.goo.ne.jp/jikisaim (32)

  • 倫理的実存 - 恐山あれこれ日記

    3.11の原発事故後、福島から自主非難を余儀なくされ、転校先の横浜で「いじめ」られた少年の手記。 「なんかいも死のうとおもった。でも、しんさいでいっぱい死んだからつらいけどぼくはいきるときめた」 私が考える倫理は、この「きめた」の一言にかかっている。 彼に深甚なる敬意を表します。

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  • 番外:今、ちょっと所感メモ - 恐山あれこれ日記

    次期アメリカ大統領に決まった人が、選挙期間中に言ったことを今後額面通りそのまま実行するとしたら、我が国にとっては、 ・憲法9条を変えて、徴兵制や核武装を含む「自主防衛」路線に転換し、 ・「戦前」回帰的ナショナリズムを強化して、現憲法が保証する「基的人権」に制限をかけるイデオロギー装置を準備する、 そういう勢力が台頭する可能性が大きくなるでしょう。 しかし、その勢力は、現自公政権を含む現体制側からは出ないと思います。なぜかというと、 現政権的「ナショナリズム」は、日米同盟と経済成長(グローバル化が基条件)を前提としているから、次期大統領の基方針(自国第一主義と反グローバル主義)と相反する以上、そのまま通用しないはずです。つまり、「ナショナリズム」として上半身と下半身がねじれていて、機動力が乏しいわけです。 したがって、私が予想する「勢力」は、欧米に遅れて、かつ欧米同様に、世間の「アウト

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  • 捨てると持つ - 恐山あれこれ日記

    いわゆる「ダイエット依存症」とボクサーの減量とは、何が違うのでしょうか? 後者は試合への出場という目的があり、それが果たされれば終了します。つまり、減量は純然たる手段です。ところが、「依存症」は減量自体が目的なので、終わりがありません。 私はこの「依存症的」な印象を、最近の「捨てる」ブームに持つのです。必要のなくなったものを捨てるというなら当たり前の話ですが、「捨てる技術」「断捨離」などの、捨てること自体に価値があるかのように語るフレーズを頻繁に耳にするようになり、その象徴的なイメージとして、例のスティーブ・ジョブズのほとんど何も無い部屋の写真を見せられたりすると、私はここにある錯覚を感じるのです。 以前、「ゴミ屋敷」の記事を書きましたが、あれは言うなれば「所有依存症」です。 しかし、よく考えてみれば、「所有」という行為の実質は、対象を「思い通りにできること」であり、ならば「思い通り」の中

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  • 発言責任 - 恐山あれこれ日記

    時々講演だの講義だのをしていますが、それらはお坊さん限定のものもあれば、一般向け(もちろんお坊さんも含む)のものもあります。 そんとなき、話の流れで、日の伝統的な仏教教団(檀家制度を基盤とする宗派)のゆくえ、みたいな話になるときがあります。 そういうとき、よく話していたのは、これからの僧侶は、ゴータマ・ブッダと自分、自派の宗祖と自分、ブッダと宗祖、それぞれの関係を根底から考え直して自分の考え方を確定し、その上で教え(考え方と修行法)を語らないと「自分の言葉」を持つことは出来ず、聴衆をインスパイアできない、ということでした。 つまり、今後の伝統教団の「布教」の成否は、僧侶それぞれが、自分に当にブッダの教えが必要なのか、宗祖の教えのどこに共感と確信を持つのか、ブッダと宗祖の教えの核心をどう把握しているのかを、クリアに語るだけの修練にかかっているということです。 そうして話の終わりに、「僧侶

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  • 同一性と差異性 - 恐山あれこれ日記

    何ものかを言語化するということは、すなわち同一性を設定することです。個々別々の物体を「茶碗」と命名する行為は、それらを同一の意味で規定することだからです。これを換言すれば、概念化(=「同一」の認識)ということでしょう。 言語化・概念化は、まずは同一性の設定ですが、この行為は必然的に、言語化・概念化された当のものとそれ以外との差異性を発生させます。つまり、同一性の設定が、同時に差異性を惹起するのです。 差異性の認識は、差異性の言語化・概念化のことですから、それはすなわち「差異」としての同一性の設定ということになります。 これに対して、まさにそこにおいて最初の言語化・概念化が起こる、それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な事態こそ、「無常」「無我」、さらに言うなら「非思量」と呼ぶべき事態でしょうが、この事態そのものは決して認識できない(言語化できない)わけで、「同一」でも「差異」でもありませ

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  • 注目の人 - 恐山あれこれ日記

    現天皇が即位した年、私は5年目の修行僧でした。某テレビ局が前年末に「時節柄正月番組に賑やかなものはマズいから、永平寺のお坊さん撮らせて下さいよ」と、安直な依頼をしてきたことを覚えています。その正月の7日に昭和天皇は亡くなり、直ちに現天皇が即位したのです。 私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。 最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。 たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。 明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。 問題を解消するには、現憲法が

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  • よく言うよ - 恐山あれこれ日記

    「君はいつだったか、鈴木大拙に『正法眼蔵』はわからない、って言ってたよな」 「言った。だって、鈴木は自分の著作において、『眼蔵』はもちろん、道元禅師にもほとんどまったく言及していない。彼の思想的土台である中国禅のパラダイムで『眼蔵』は処理しきれないことを知っていたからだろ。わからないから黙っていた。当たり前だが、わからない以上余計なことを言わなかったのは、さすがに偉い」 「変なほめ方だな。要するに『見性』なんぞを持ち出すアイデアは『眼蔵』に通用しないということか?」 「通用しないのではなく、それを言えば間違える。時々、『身心脱落』や『非思量』を『見性』と同一視して語る輩がいるが、そもそも道元禅師人が『禅宗』という言葉や『見性』という概念を否定しているんだから、話が無理筋だ」 「『即非の論理』は使えないと」 「そりゃそうだろうな。鈴木の『即非の論理』は、とどのつまり、主体と客体が未分の状態

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  • 水曜日 - 恐山あれこれ日記

    とある水曜日の昼下がり。バスに乗っていると、目の前の「優先席」に坐っていたご婦人ふたりが、 「この時間は空いてるわねえ」 「病院は混んでるのにねえ。私、明日病院なの。月曜だから大変よ、混んで」 「日曜の後はねえ・・・」 「今日ね、当は午前に孫が来るって言ってたのよ。でも来なかったの。待ってたのに」 「ああ、で、午後に出てきたの」 「そう。日曜日に行くからねって言うから、待ってたのに」 「あらあら・・・」 「3、4日前に来たばかりだったんだけどね」 (その日が日曜でしょ!) 私はどうしようかと思いました。今日は日曜日ではなく水曜日だと、彼女たちに言うべきであろうか。 しかし、彼女たちの会話は穏やかに、問題なく続いています。それでも、言う必要があるとすれば、次のような場合でしょう。 一、会話の最中、時々不具合が生じて、二人が、どうも何か変だ、何かおかしいと感づいた様子が見えたとき。 二、この

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  • 事件の後で - 恐山あれこれ日記

    「生きていても仕方がない」かどうかは、生きている人以外には決めようがありません。当人の生活条件の如何にかかわらず、第三者が口を挟む問題ではさらさらない話ですし、「仕方がない」かどうかを判断する「客観的な」基準など、妄想に過ぎません。 障碍者であろうが健常者であろうが、大切にされ、受け容れられ、暖かい人間関係の中にいる人にとっては、生きていることはおそらく、「満更でもない」でしょう。 障碍者であろうが健常者であろうが、邪慳にされ、排除され、孤立と不安の中にいる人にとっては、「生きていても仕方がない」という思いもあって当然でしょう。 生きている「意味」や「価値」それ自体などは存在しません。我々は根拠も理由もなく生まれ、根拠も理由もなく死んでいきます。すでに生まれてきてしまってから考えたり、聞かされたりした「意味」や「価値」は、要するに後付の理屈に過ぎず、検証の仕様もありませんから、お伽噺とか

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  • 墓と霊場 - 恐山あれこれ日記

    今年も無事に夏の例大祭が終了しました。ご参拝いただいた皆様、お疲れ様でした。ありがとうございました。 期間中、法要受付に坐っていると、様々な方が塔婆のご供養に来られます。大抵は、受付をすますと、そそくさと境内の参拝やイタコさんの口寄せの方に向かわれるのですが、中には、受付で話をしていく方がいらっしゃいます。 「2月に女房が亡くなってねえ・・・」 申込書に書き込みながら、息を漏らすように話される方がいたりすると、「そうですか・・・」くらいしか、声のかけようがありません。短い言葉にこもる想いが、返事をするのをためらわせるのです。 そんなことがあると、時に思い出すのが、以前、息子さんの供養に来られた女性の言葉です。 「お墓はちゃんとあるのに、どうしてこんなところに来たくなるのかしらねえ・・・」 こういう時に私が思うに、亡くなった人に対して接するパターンは大きく3つでしょう。 一つは、たとえば大き

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  • 悪態です4 - 恐山あれこれ日記

    投票日前ではあるが、言わずにいられない。 人は色々だから、十把ひとからげはよくないことだと承知の上で言うぞ。右の端から左の端まで、国会議員と参院選候補者は、一体全体、どうなってるんだ! どうして誰一人として(いわゆる「泡沫候補」の主張まで全部調べてはいないが)、いま増税を訴えないんだ!! 直ちに増税に踏み込んだ上で、所得の再分配機能を強化した税制の見直しに着手しようとする政治家が、なぜ誰もいない? 金利がマイナスになるほど札束をばらまいてもできなかった増税が、どうしてこの先突然できるようになると言うんだ(まさか「奇跡」だのみか?)。将来どころか、明日の子育てや介護に不安を感じている人に、「成長と分配の好循環」などという、今更ほら話にしか聞こえないご託宣を吹き込んでどうする! そうでなければ「赤字国債」で何とかするという。阿呆か! 異次元緩和だの国債だの、もはや中毒を自覚できない薬物中毒者の

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  • 「業」について - 恐山あれこれ日記

    仏教に「輪廻」というアイデアは不要だが「業」は違う。「業」は「自己」の実存理解において、決定的な意味を持つ、というようなことを時々言ったり書いたりしてきたので、ここで私が「業」をどう考えているか、ざっと説明しておこうと思います。 「業」の辞書的理解を紹介しておくと、およそ次のようになります。 サンスクリット語では「カルマン」と言い、「行為」を意味する。「業」思想とは、ある人間のある行為が彼の実存の仕方を規定し拘束することを、善因善果・悪因悪果という倫理的因果関係において理解する思考様式である。仏教では「自業自得」を主張し、その限りでは実存の「自己責任」論を採用している。多くの場合、「業」思想は「輪廻」思想と結び付けられ、過去・現在・未来の三世にわたる教説(「三時業」)として語られてきた。 これに対して、現在の私の「業」理解を簡単に提示します。 現在の「自己」の実存が、その時点での既知未知に

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