ブックマーク / blog.goo.ne.jp/jikisaim (32)

  • 傍目の見方 - 恐山あれこれ日記

    ゴータマ・ブッダの生涯については、初期経典に言及する文章が散在してます。また、後代には伝記的経典も作成されました。 その中から古来、特に重要な出来事を四つ選んで「四大事」と言います。その四つとは、誕生、成道(悟りを開く)、初転法輪(最初の説法)、涅槃(入滅、逝去)です。この四つを誰が「大事」と決めたのか知りませんが、私には個人的な不満があります。 たとえば、どうして出家が入ってないのか不思議です。我々にしてみれば、出家したゴータマ・シッダールタに意味があるのであって、ただのシッダールタの誕生などは、どうでもよいことです。 それに初転法輪を言うなら、それを可能にした梵天勧請(梵天による説法の要請)も重要でしょう。 そこで、これらの仏伝のエピソードについて、日ごろ私がつらつら考えていることを書いてみようと思います。 〇誕生 これについては、要するに、彼は大変結構な生まれと育ちで、十分な教育を受

    傍目の見方 - 恐山あれこれ日記
  • 年の瀬の放言 - 恐山あれこれ日記

    年末に陶しい話ですみません。ご海容ください。 人並み以上に道徳的とは到底思えない政治家が決め、誰でもそうであるように、道徳的かどうかは時と場合と人による教員が、学校で教科として「道徳」を教え、しかもそれを成績のごとく評価するという、およそ馬鹿げたことをするくらいなら、ぜひ試みてほしいことがあります。 それは、いわば「生死」科を義務教育にすることです。つまり、家族をつくり、次世代を担う子供を持ち、彼らを育てていくこと。そして、ついに自分や家族が老いて死んでいくとはどういうことか ーーー 自分自身についても他人についても、それをどう考え、どう扱っていくかを、実地に学ぶのです。 私は、時々、面会希望の人たちと話していて、この人はどうしてこれほど親との関係で苦労しなけれいけないのかと、気の毒になることがあります。また、世上では児童虐待の報道が絶えず、どうみても親にならない方がよかった思う人物を目

    年の瀬の放言 - 恐山あれこれ日記
  • ことは面倒 - 恐山あれこれ日記

    私は以前、倫理に関するを書きました。無常だの無我だのを標榜する仏教は、善悪判断の絶対的な根拠を提供できない事情を論じ、自分の考え方を提起してみたのです。 ただ、巷では、割と簡単にこの問題に結論を出すアイデアを紹介する例が目立ちます。 例えば、仏教では修行を促進するものが善で、それを妨げるものが悪なのだ、という説です。 これは、教団内部では矛盾なく通用しますが、教団は常にそれより大きな共同体(社会)の中にあり、しばしば倫理問題は教団と社会を跨ぎます。すると単純な話では通用しなくなるでしょう。 仮に対抗勢力を虐殺したり政敵を恣意的に処刑するような「非道な独裁者」がいたとして、彼が仏教教団ないし修行者個人に対して、「自分に服従すれば手厚く保護するが、従わなければ弾圧する」と言い出したら(これまでもあり、これからもあり得るケース)、言われた側はどう態度を決めるのでしょう。 「保護」が「修行を促進

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  • でも、かまわない。 - 恐山あれこれ日記

    お寺に行ってご尊を前にして、どうしていいかわからないというあなたのお話を、とても興味深く、また共感してうかがいました。 お説教を聞きたくてお寺に行ったり、坐禅を習いに住職を訪ねなどした折に、「まずは、ご尊にお参りを」と言われても、自分はその尊とどう向き合ったらよいかわからない。それが当のお釈迦様や観音様に思えるわけでもなく、芸術として感動するほど仏像彫刻に興味もない。そもそもただの木の塊を「拝む」気持ちがわからないと、あなたのお話はまことに正直でした。 実を言えば、私もまったく同じだったのです。出家して修行道場に入門してから、私はあちこちに信仰と礼拝の対象として祀られる仏菩薩を、当にお釈迦様や道元禅師と思っていたわけでもなく、礼拝のたびに信仰の念(私は今もそれがどういうものかわかりません)を新たにしていたわけでもありません。ただ道場の儀礼と修行の規範に従い、ルーティンワークとして

    でも、かまわない。 - 恐山あれこれ日記
  • 「と」の字問題 - 恐山あれこれ日記

    「一度訊いてみたかったんだが、君はハイデガーをどう思う?」 「お世話になった」 「あはははは。なるほどね」 「一方に『存在と時間』があり、他方に『正法眼蔵』「有時」の巻があるんだから、何か言いたくなる気持ちはわかるがな」 「どんな風に読んだ?」 「最初は高校生の時。『存在と時間』をクラスメートが読んでいて、流し目で『知っているか?』と訊かれ、つい見栄を張って『知ってる』と言ってしまい、読む羽目になった」 「じゃ、『眼蔵』を初めて読んだのと同じころなのか?」 「そう。1年くらいの差しかない。でも、印象は強烈だったな。両方とも、まるで、皆目わからない。しかし、自分にとって決定的に大事なことが書いてあることだけ、わかる。無理した後遺症は大きかった。これをきっかけにおっかなびっくり他の哲学書にも手を出し始めたのだが、最初の一冊のダメージはケタが違ったよ。」 「その後は?」 「大学に入ってから1度、

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  • 対話の中で - 恐山あれこれ日記

    ▼お医者さんと 「結局、最後は敗北する職業です。大変だと思いますが、そのつもりでやることです」 ▼教師と 「親の子育ては試行錯誤の連続ですが、あなた方は失敗せずに試行錯誤するという無理を周囲から要求されるところが、非常に辛いだろうと思います」 ▼母親と 「私の母は、口に出して約束したことは必ず守ってくれました。そして、自分に誤りがあるとわかったときは、大人に謝るのと同じように、はっきり子どもに謝りました。これは信用の根であり、したがって『躾け』と『教育』の土台です。私はいま見習っています」 ▼父親と 「母親は時として無意識的に忍耐できますが、父親はそれほど『賢く』ないので、常に努力して忍耐しなければなりません。自戒です」 ▼自称「引きこもり」の若者と 「要するに、死ぬまで引きこもれる金があるのかどうか、一人で部屋の中で稼げるスキルがあるのかどうかです。前者は昔『高等遊民』と言いました。後

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  • ナンパと後悔 - 恐山あれこれ日記

    その日、私は珍しくモノレールに乗って羽田空港に向かっていました(実は、飛行機が嫌い)。 日中ながら乗客は多く、私は荷物置き場付近にずっと立っていました。すると、いつ間にか右隣に、いわゆる「ヤンキー風」「ギャル的」少女(ほぼ間違いなく10代半ば)が立っていたのです。 金と白に染め分けられたクルクルの巻き毛が何も垂れ下がっている上に、バービー人形のような派手なメイク。オレンジ色のタンクトップ(という名前の服があったような)と銀色のショートパンツ、耳と首と両指と両手首、さらに両足首と腰に何ものリングとチェーンが巻き付き、高下駄のようなサンダルの革ひもが膝まで結び上がっていました。 あまりにインパクトのある風体に私は怖れをなし、まかりまちがって痴漢かなにかに誤解され、「インネン」でもつけられては目も当てられないと、立ち位置を左に1メートル弱、不自然でないよう用心しながら移動しました。 すると、

    ナンパと後悔 - 恐山あれこれ日記
  • 「無常」問答 - 恐山あれこれ日記

    「君は、無常や無我は事実の問題ではなく、認識の問題でもなく、畢竟じて言語の問題だと言ったな」 「言った」 「どういう意味だ」 「この世に事実そのものなど無い。あるのは『事実として認識されたこと』だけだ。そしてその認識は言語によって構造化されている。だから、無常も無我も言語の問題だと言ったのだ」 「たとえば?」 「無常を『一切のものが一瞬も留まることなく変化すること』と解釈しても、『変化』は『変化しないもの』=実体を前提にしない限り認識できないから、あまりに幼稚な解釈にしかならない。逆に主語に当たる『一切のもの』自体が変化するなら、『すでに変化しているものが変化する』という矛盾が生じる以上、何も変化しないことになる」 「『中論』の議論だな」 「そのとおり」 「他には?」 「全てものは要素の集合なのに、凡夫はそれを認識できずに、ものそれ自体が存在するように錯覚していると説いて、無我を説明する方

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  • 対照的教訓 - 恐山あれこれ日記

    Unknown (たかはし) 2017-04-30 02:23:20 普通の人が、そんなことで絶望はしないだろうと思うことに、釈迦は絶望して、悟りを目指した、私はそう思っています。 「愚かな凡夫は、自分が死ぬものであって、また死を免れないのに、他人が死んだのを見ると、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪している―――自分のことを看過して。じつはわれもまた死ぬものであって、死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、考え込んで、悩み、恥じ、嫌悪するであろう、―――このことは自分にはふさわしくないであろう、と思って。わたしがこのように考察したとき、生存時における生存の意気はまったく消えうせてしまった。」(アングッタラニカーヤ、中村元訳) まさに、私のためにあるような思想だと思いましたよ。そういうものに若い頃に接していたら、どうなっていたかなあ、と考えることがありますが、その時は、ナンセンスと思って相手に

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  • 無記と空 - 恐山あれこれ日記

    「机が無い」という認識(言い方)が成り立つのは、机が在ることを前提にしています。そもそも全くないものを「無い」と言うことはできません。つまり無いことそれ自体は認識できず、無いことの認識はあくまでも在ることに依存しているわけです。この、いわば「無い」ことを可能にする「在る」は、当然、普通我々が言うところの「在る」とは、その「在り方」が違うでしょう。 他方、「机が在る」という認識は、それを自分が見ている、触っているなどの経験を通じての認識であることが普通です。では、経験的に認識していないとき、すなわち見ても触ってもいないときに、「机が在る」と言えるのかと問うた場合、即座にイエスと即答できるでしょうか? 見ても触ってもいないものを、「在る」となぜ、どういう理由で言えるのかは、非常に困難な問題です。これは原理的に「在ると信じている」以上のことは言えません(さらに言えば、すべての「在る」は実際には「

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  • 決メのひと言! - 恐山あれこれ日記

    この前地方の在来線特急に乗ったら、今どき珍しい光景に出くわしました。 出発の数分前、私の乗った車両は、スーツ姿の男性ばかり7、8人とまばらで、皆すでに眠っているか、スマホ片手に俯いていました。そこへ突然、10人以上の男女(男性は2人のみ)が駆け込んできました。 「ここ、ここ、3号車!」 先頭集団が、振り返りざまに後続に叫んでいます。全員、おそらく70歳以上ではないかと思われる、正体不明の一団です。 最後の一人が乗り込んだとたん、発車ベル。 「早くすわってや!」 先頭集団の一人だった、大柄で、目立つイヤリングをした女性がリーダーらしく、指さしながら座席をテキパキ指示しています。私のすぐ前の席があっという間に一杯になりました。 「よーし!、じゃあ、次は弁当買って、これだな!」 頭がきれいに禿げて、灰色の眉毛の太い男の人が、座るとすぐに90度腰を曲げ、足元のリュックから、驚くべきことに一升瓶と紙

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  • 真理と常識、あるいは問題 - 恐山あれこれ日記

    思うに、「真理」は深さが、「常識」は拡がりが肝要でしょう。 「真理」は多数決で始まりません。誰かがそれを「真理だ」と強く信じれば、そのときに「真理」は成立しています。彼以外の大多数が認めなくても、その時の彼には「真理」以外の何物でもありません(無論、後日「誤りだった」ということになるかもしれませんが)。「真理」は結局「真理だと思う」強度に依存するのであって、いわば質的概念です(「それでも地球は動いている」)。 これに対して「常識」はまさに多数決です。「常識」がそういうものである所以は、大抵の人がそう思っているということであり、量的概念だと言えましょう(昔の天動説、いまの地動説)。 「真理」は、時には「常識」に試され、抵抗され、それを突破して「常識」になる場合もあります。「時代」を動かすのは、そういう変化です(「コペルニクス的転回」)。 また、「常識」は「真理」に挑戦されれば、それを吟味し、

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  • 色と空 - 恐山あれこれ日記

    でお経と言えば、突出して有名なのが般若心経でしょう。その心経の中で最も人口に膾炙しているフレーズが、「色即是空 空即是色」だと思います。 常識的な解釈だと、「色」とは物体とか現象など、人間が経験として認識できる事象の意味であり、「空」とは、そのような事象がそれ自体として実体的に存在していないこと、換言すれば、それ自体に存在根拠を持たないまま現前していることを意味しています。大乗仏教は、そのような存在の仕方をさらに「縁起」というアイデアで説明するわけです。 このとき、「色即是空」は、「色は即ち空である」と読み下して、およそこの世のすべての事象は、実体としてではなく、そのように存在する根拠を欠いたまま現前している、という具合に解釈できるでしょう。 問題は、「空即是色」です。まず「空は即ち色である」と読み下すと、当然ながら「空」が主語となります。そうなると、読み手は「空」なる何ものかがある、

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  • 番外:「揺らぎ」の要 - 恐山あれこれ日記

    このところ騒動になっているエキセントリックな幼稚園の一件で、急に脚光を浴びることになったのが「教育勅語」です。あれを園児が「合唱」する様子は、確かに見ていてあまり気持ちの良いものではありませんでした。 しかし、「合唱」はともかく、「教育勅語」の何がいけないのかと言われれば、必ずしも即答できないでしょう。 だから、これを「経典」や「聖書」なみに神聖視する方々は、いつの時代にも通じる「イイこと」がたくさん書いてある「立派な文書」と主張するわけです。 実際「イイこと」が書いてあります。「父母ニ孝二兄弟二友二」から「国憲ヲ重シ国法二遵ヒ」辺りまでは、「何が悪い」と言われれば反論が難しいでしょう。 私が思うに、問題は「イイこと」にあるのではなく、「イイこと」が埋め込まれている文脈にあります。この「イイこと」は「皇祖皇宗」と「国体」に規定され、そこに正当性の根拠を持つのです。 つまり、ここで書かれてい

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  • 時間と言語 - 恐山あれこれ日記

    ゴータマ・ブッダの言葉を伝えるとされる初期経典に、次のような趣旨の話があります。 <言葉には「かつて存在した」「いま存在している」「これから存在するだろう」というように、過去・現在・未来の時制がある。このことは、立派な修行者はみな承認していることである。 しかるに、無因論者(因果律を認めない者)・非行為論者(「業」を説かない者)・虚無論者(偶然主義者)らは、この時制を否定して当たり前なのに、そうしない。世間から時制を否定する者だと非難されるからである> この話が面白いのは、我々が意識する時間の秩序と因果律(「原因ー結果」概念)の相関性を明瞭に述べているからです。このとき、私が思うに、過去・現在・未来の時制が成立しているから、因果律を設定できるのではありません。 自らの体験を、因果律で秩序づけるから、そこに前後関係が創発され、過去・現在・未来と一方向に「流れる」、線形イメージの「時間」が現象

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  • 若し、仮に - 恐山あれこれ日記

    Unknown (すけのじ) 2017-01-30 00:58:29 こんばんは。 私には、和尚さんがおっしゃるように、トランプ大統領が当に「吾我名利」のためだけに行動しているのか、分かりません。 保守主義の立場から考えると、トランプ大統領の保護主義的な政策は、私には正しい方向であるように思いますし(あまりに急進的な政策には反対ですが…)、彼の発言も少々過激なものが多いですが、その内容は近代民主主義の偽善や欺瞞を率直にあぶり出すもので、私は評価できる点も多いように思います。 大統領選に立候補してからの、これらの一連の行動を見ると、私には、トランプ大統領には何かしらの政治的信念があるような印象も受けます(保護主義・白人至上主義など…)。当に「吾我名利」のためだけに彼は行動しているのでしょうか。こればっかりは、彼の音を聞かない限り誰にも分かりませんが。 いづれにしても、現代が大きな歴史

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  • T氏への応答 - 恐山あれこれ日記

    あなたの言われる通り、私はこれまで、「悟り」や「涅槃」はそれが何であるか、釈尊が語っていない以上、根的に「わからない」のだと言い続けています。 ただ、これまで「悟り」については、事の是非はともかく、『正法眼蔵』の記述から自分なりに、「縁起的実存の自覚における主体性の生成」などと定義したり、初期経典にある釈尊の言説や行状から、彼の「悟り」は「無明の発見」のことだろうと推定したことがあります。 ところが、「涅槃」に関しては、はっきりした自分の解釈を述べたことがありません。しかし、あなたのおっしゃる通り、この重要な言葉に何の解釈も示さないようでは、私の考えている仏教の輪郭が明確にならないというご指摘は、もっともだと思います。 そこで、現在の自分がとりあえず定義する「涅槃」について申し上げようと思います。 私は現在、「涅槃」を「死の受容」だと考えています。今のところ、私たちが「涅槃」を事実だとし

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  • そこ - 恐山あれこれ日記

    Unknown (柊) 2016-12-30 17:38:33 物心ついたらふと 見上げて思うことが この世の存在すべてが 言葉から 胸の中にあるもの いつか見えなくなるもの それは自分にあること いつも思い出して 言葉をこえてゆけ 年も誠にありがとうございました。 良いお年をお迎えくださいますようお祈り申し上げます。 返信する 勝手に英訳 (hasunohana1966) 2016-12-30 17:41:43 Over there, a word coming up. The word bringing a death. The death bringing others. The others bringing bodies. Where is there? Where is. 返信する Unknown (南京ハゼ) 2016-12-30 17:44:14 全く実感のわかぬまま慌

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  • 意味づけの問題 - 恐山あれこれ日記

    「君はこれまで、ゴータマ・ブッダが『悟り』や『涅槃』が何であるか、確たることを一切語っていない以上、結局それは『わからない』ことで、誰が何を言っても、それがブッダの『悟り』や『涅槃』と同じなのかどうかは証明できない、と繰り返し言っているな」 「そう。あとは『ブッダの悟りと同じ』と認定する手続きとシステムの『真理性』『正統性』をめぐる、ほとんど政治的な問題」 「ちょっと極端な言い方だな」 「だってそうだろ。たとえば『悟り』、あるいは経験可能とされる『涅槃』が何なのか説明される場合、不思議なことにそれは、上座部の瞑想から日の禅にいたるまで、似たような話ばかりになる。いわく、「私」が消える、対象が無くなる、自他の区別が無くなる、思考が停止する。宇宙と一体になる。有無を超えた『無』になる、等々」 「たしかにそんな気がするな」 「ならば、そこに達する方法の違いなどに大した意味はないはずで、その強調

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  • どうなってるんだ!? - 恐山あれこれ日記

    打ちすぎて効かなくなった麻薬さながら、いよいよ収拾がつかなくなりつつある金融緩和の後に、今度は博打で「経済成長」させようなどと、いつまでアブク銭をあてにしたら気が済むのだ。 音は一時の「景気刺激」(あるいは「なんかいいことないかな」的国威「小」発揚)であるにもかかわらず、「被災地復興」などと言い募り、邪な動機で始まったオリンピックは、今や無様な迷走を続け、もはやこの先何が起こるかわからない。その上、万博だの冬季五輪だの、どこまで能天気な昔話を蒸し返すつもりなんだ。 すでに時代錯誤的存在となりつつある原発を再起動し、その上核廃棄物の再処理サイクルを強引に延命して、ますます問題を将来に先送りしようというのでは、見通しの暗い年金制度同様、若い世代に申し訳がないだろう。 だいたい国内においては、少子高齢化と人口減、具体的には子育て・教育と介護・看取りの問題に政策的財政的資源を思いきって注ぎ込まな

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