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2009年9月28日のブックマーク (2件)

  • マジョリティの傲慢さとは、 「俺が差別する」を、「差別される」とさらっ..

    マジョリティの傲慢さとは、 「俺が差別する」を、「差別される」とさらっと言い換えること なんだよね。この論理のすり替えが傲慢さの質。 差別したけりゃすればいいし、偏見持ちたければ偏見持てばいいんだけど、 それを「差別される」「偏見を持たれる」とか言いかえるのは、 その行為や存在の責任を「自分(私)」から「世間」に転嫁することで、自分の行為や感情の存在から逃げる という傲慢かつ勝手な論理というしかない。 この応用が「○○は許されない」という論理ね。 「自分は許さない」といえばいいのに、なぜか「○○は許されない」と置き換えたがる。 そんなに自分の言動から逃げたいのかねえ。

    マジョリティの傲慢さとは、 「俺が差別する」を、「差別される」とさらっ..
  • 「Aを選ぶのは自由だよ。ただAを選んだら差別されるだけで」

    「Aを選ぶとさ、凄い冷たい視線で見られたり悪口言われたり無言のプレッシャーかけられたりして、実質的にもうA選べないよな。この国はAを選ぶ自由がないよ」 「いや、Aを選ぶのは自由だよ。別にAを選んだからって逮捕されるわけじゃないでしょ。ただAを選んだら、陰口叩かれたり、『そういう目』で見られたりするってだけ。選ぶ自由はあるよ」 「なんでAを選んだらそんな目にあわなきゃならないんだ」 「だってAを選んだらそうなるってことは分かってるんだから、色んな目にあっても、それはAを選んだ人の自己責任だよ。自由は責任とワンセットだよ。Aを選びたい、でも責任は負いたくないなんて我侭だよ」 っていう論調をたまに見かける。 でもこれって要は「Aを選ぶのは自由。ただAを選んだら差別されるだけだよ」って言ってるにも等しく、更に「それを選んだら差別される」状況は自由とは言わないのではないか?(自由に関して色んな定義が

    「Aを選ぶのは自由だよ。ただAを選んだら差別されるだけで」