文藝雑誌は毎月七日発売である、などということは多くの人は知らないだろう。『文学界』と『群像』に「悲望」評が出たので、所感(弁明?)を述べておきたい。それにしても、雑誌に何かが載っただけでいろいろ評してもらえるというのは、小説家というのはずいぶん甘やかされているんだな、と思った。ただ全体に対して何か言うのは時期尚早あるいは不要なので、気になった箇所だけ触れる。 『文学界』の「新人小説月評」は、森孝雅と福嶋亮大。森は、甘んじて受けると言っておいた、小説になっていないという評。しかし、「もう少し時間をおいて、作品として差し出すことはできなかったのか。あるいは、どうしても今、これを書かねばならない事情があったのか」と結ばれているが、別にワインではないのだから時間をおけば小説になるというものではないと思う。小説になっていないとすれば、私に才能がないからに過ぎない。あれは十年くらい前に書いて、二年ほど
前に『文学界』に連載していた「文壇から遠く離れて」は、『反=文藝評論』(新曜社、二○○三)に収められているのだが、その中の「虚構は『事実』に勝てるか」という章の最後で、私は「想像力」という語の安易な用い方を反省すべきではないかと書いておいた。この語はサルトルが用いたのを、日本では大江健三郎が盛んに使って広まった。「他者」という語もサルトル由来で、こちらは江藤淳によって広められた。この二つを合わせて「他者への想像力の欠如」といえば、今では手垢にまみれた言葉である。それを、加藤典洋が『朝日新聞』の文芸時評(七月二十五日夕刊)で使っていたから、今さらながら加藤の鈍感さに驚いたのだが、想像力なるものは、人に冤罪を着せるためにも使われるし、あらぬ噂をたてる場合にも使われる。重要なのは事実ではないか、と私は書いた。 さて加藤は、私の「悲望」をとりあげて、「相手の女性が感じただろう恐怖と不安への想像力が
昨日、評判の映画「ALWAYS 三丁目の夕日」をビデオで観て、あまりのひどさに怒りさえ覚えた。単に昭和33年の東京の町並みを再現しただけで、シナリオはチープで傷だらけだし、あの時代特有の臭いや貧しさというものがまるで伝わってこない。だいたい小日向文世が「お前はこれから一流品に囲まれて暮らすんだ」と言って万年筆を返させる箇所など、素人がシナリオを書いているとしか思えぬ。社長をするほどの人間がそんな低レベルに人の気持ちを無にするようなまねをするわけがない。全編これ、出来の悪いマンガなみの筋立てである。 私は学生時代、西岸良平の『夕焼けの詩』が好きで、かれこれ十数冊は読んでいた。『三丁目の夕日』は読んでいないが、あれはだいたいあの顔がいいのだし、「原作」と銘打っていてもまるで別物だろう。西岸には『赤い雲』のような優れたホラーもあった。何より、あの横長顔にもかかわらず、女性が時おりとてもセクシーに
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