多数派が必ずしも正しいわけではない――しかもそうである場合が少なくない――ということは、Yoshiの『Deep Love』シリーズや片山恭一の『世界の中心で、愛をさけぶ』が、大西巨人の『深淵』や金井美恵子の『噂の娘』、笙野頼子の『水晶内制度』、阿部和重の『シンセミア』、中原昌也の『あらゆる場所に花束が……』、鹿島田真希の『一人の哀しみは世界の終わりに匹敵する』などを発行部数なり売上げなりの面で圧倒していたとして、小説の面白さとして圧倒的に劣っているという一事をとっても明らかなのに、多数派の意見をよしとする多数決が様々の場面で多く用いられるのはどういうことなのだろうか。 ・多数派が正しくない場合 ある問題を正しく理解できている人たち(A)と、現時点で理解できていないが理解できるポテンシャルを持つ人たち(B)と、理解できない人たち(C)とがいる、ということを上図は示す。(もちろん、特に正規分布
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