聖徳太子の命を受けて、海のかなた百済の国から三人の工匠が日本に招かれました。このうちのひとりが、金剛組初代の金剛重光です。工匠たちは、日本最初の官寺である四天王寺の建立に携わりました。重光は、四天王寺が一応の完成をみた後もこの地に留まり、寺を護りつづけます。 創建時、四天王寺は当初計画にあった廻廊と講堂の建築を残しておりました。これらの完成は八世紀の初め、創建時から百数十年を経た奈良時代前期のことです。その時すでに初代金剛重光はこの世にはなく、その技術と心は二代目から三代目へと代を重ね、後世に受け継がれていきました。 1576年(天正4年)、石山寺の戦いに巻き込まれ、四天王寺は、支院を含め伽藍全体が焼失します。 豊臣秀吉が全国を統一したあとの1597年(慶長2年)、秀吉により四天王寺支院・勝鬘院(愛染堂)の多宝塔が再建されました。多宝塔にある雷除けの銅板に、「総棟梁金剛匠」との銘が残されて