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Entwürfenに関するUnimmoのブックマーク (16)

  • 【断片から見た世界】『告白』を読む 破局のただ中から立ち上がるもの - クリプレ

    「苦しみ抜くこと」の問題:フランクルと、実存の深奥 強制収容所の体験を生き延びたV・E・フランクルが書いた『夜と霧』には、人間が「死に至る病」であるところの「絶望」と向き合ってゆくための重要な手がかりがいくつも残されています。 「苦しむことの意味が明らかになると、わたしたちは収容所生活に横溢していた苦しみを、『抑圧』したり、安手のぎこちない楽観によってごまかすことで軽視し、高をくくることを拒否した。わたしたちにとっては、苦しむことですら課題だったのであって、その意味深さにもはや目を閉じようとは思わなかった……。」 前回の記事では、「〈可能性〉への目覚め」なる契機を通してこのについて考えてみましたが、フランクルとキルケゴールの思考が重なり合う部分はまだ他にもありそうです。今回の記事では、「苦しみ抜くこと」の問題をめぐってフランクルの言葉に耳を傾けてみることにしたいと思います。 「苦しむこと

    【断片から見た世界】『告白』を読む 破局のただ中から立ち上がるもの - クリプレ
  • アリストテレスの「エネルゲイア」と「キーネーシス」の区別に関する一考察

    アリストテレスは『形而上学』Θ巻第6章(以下, Θ6)で様々な行為を「エネルゲイア(活動)」と「キーネーシス(運動)」に区別している.その一方の「ネルゲイア」とは,現在進行と完了が同時に成立する行為であり,「見る」がその典型例である(「見ている」と同時に「見てしまった」といえる).他方「キーネーシス」とは,一定の目的に向かう末完了的な過程を持つ行為であり,現在進行と完了が同時には成立しない.その典型例は「建築」である(「建築している」と同時に「建築してしまった」ということはない).この区別をめぐっては従来,他のテキストとの関連が注目される一方で,このような排他的区別の成立を根的に疑う見解が研究者から示されてきた.とりわけ,アクリルが投げかけた疑問と,それを解消するべくペナーが提起した「二局面構造説」は,区別の成否を検討する上で重要な論点を提示している.稿は,ぺナー説を批判的に検討しつつ

  • https://twitter.com/philosophy1985/status/1636871138340126721

  • https://twitter.com/philosophy1985/status/1623215723601620992

  • https://twitter.com/gongon0221/status/1603047897901436928

    https://twitter.com/gongon0221/status/1603047897901436928
  • 「女優の軽やかさは、どこから来るのか?」:「危機」におけるキルケゴールの言葉から考える - イデアの昼と夜

    「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるにあたっては、「実存」の語を現在用いられているような意味ではじめて使用した先人の言葉を参照しておくこととしたい。セーレン・キルケゴールが1848年に発表した「危機」(正式題名「危機および一女優の生涯における一つの危機」)における次の文章を引用するところから、議論を開始してみる。 「彼女のもっているその規定しえないあるものは、最後に、次のことを意味していると言えよう。すなわち、彼女は舞台上の緊張状況とまったく正しい関係にある、ということである。」 このテクストでキルケゴールは、当時のデンマークで有名であった女優、J・L・ペーツゲスの魅力について考察を加えている。ペーツゲスが舞台の上に現れると、観客たちは、彼女の周囲に漂っているいわく言い表しがたいアウラに捉えられてしまう。この魅力、この「規定しえないあるもの」は一体、どこから来るの

    「女優の軽やかさは、どこから来るのか?」:「危機」におけるキルケゴールの言葉から考える - イデアの昼と夜
  • カルナナンダのように、走りきれたら:1964年、東京オリンピックにおける出来事を通して考える - イデアの昼と夜

    今回は、「被投性の重み=生きることの重荷」をめぐる問題圏について考えるために、一つのエピソードを取り上げてみることにしたい。それは今から60年ほど前、1964年に起こった出来事である。 1964年の東京オリンピックにおける10000メートル走で、後々まで人々の記憶に残ることになった一人の選手がいた。その選手こそ、セイロン(現在のスリランカ)のラナトゥンゲ・カルナナンダに他ならない。 といっても、この選手はレースに勝ったというわけではない。反対に、カルナナンダ選手のレースでの成績は最下位だったのである。それというのも、彼はこの日には体調を崩していて、来ならばレースどころではないという位の最悪のコンディションだったのであった。 アメリカ人選手のビリー・ミルズが「やり切った!」という表情で、喝采を浴びながらトップでゴールした時には、カルナナンダ選手は実に4周の遅れをとっていた。どう頑張っても逆

    カルナナンダのように、走りきれたら:1964年、東京オリンピックにおける出来事を通して考える - イデアの昼と夜
  • Princess Mononoke: The masterpiece that flummoxed the US

    Now 25 years old, it is Japanese animation master Hayao Miyazaki's most complex work. But its mishandling in the West speaks of fundamental artistic differences, writes Stephen Kelly.

    Princess Mononoke: The masterpiece that flummoxed the US
  • 「自分自身を愛することの難しさ」:〈使命〉=「最も固有な存在可能」の問題圏について考えるために - イデアの昼と夜

    私たちはこれまで「重荷」という表現を用いてきたが、この言葉はハイデッガー自身が『存在と時間』において用いてもいる。「負い目ある存在」について語られている、次の箇所を引用してみる。 「存在していながら、現存在は被投的なものであり、じぶん自身によってみずからの〈現〉のなかにもたらされたのではないものである。[…]そのような被投的な存在者として現存在は、実存しながら、じぶんの存在可能に対する根拠である。現存在がその根拠をみずから置いたのではないとしても、現存在はその根拠の重みのうちにもとづいている。現存在にとって、気分がこの重みを、重荷としてあらわにするのである。」(『存在と時間』第58節より) 人間は、自分自身が存在することを望んだから存在しているというわけではなく、常にすでに、そのつどの自分自身のあり方のうちへと「投げ込まれている」。被投性とは、この「事実のうちに投げ込まれている」という事態

    「自分自身を愛することの難しさ」:〈使命〉=「最も固有な存在可能」の問題圏について考えるために - イデアの昼と夜
  • 「事象そのものへ!」:『存在と時間』のテーゼ「『それ』が呼ぶ」の分析を通して、哲学することへの衝動の本質を見定める - イデアの昼と夜

    良心の呼び声の性格をより根源的な仕方で捉えるために、私たちは、ハイデッガーの「『それ』が呼ぶ」という定式に着目してみることにしたい。 「呼び声はそれどころか、私たち自身によって計画されるものではまったくない。準備されるものでも、随意に遂行されるものでもまったくない。『それ』が呼ぶ。期待に反して、否むしろ意志に反してすら呼ぶ。」(『存在と時間』第57節より) まずは、文脈を確認しておくことにしよう。私たちの生においては、あたかも日常性を突き破るようにして、呼び声の経験とでも言うべきものが降りかかってくることがある。すなわち、「あんなことを言うべきでは/するべきではなかった……」とか、「誰から言われているわけでもないけれど、わたしには『あのこと』ができるし、するべきなのではないか?」といった感覚は、それが実際に言葉にして表現されるかどうかは別にするとしても、時折、私たち自身の現存在を襲ってこず

    「事象そのものへ!」:『存在と時間』のテーゼ「『それ』が呼ぶ」の分析を通して、哲学することへの衝動の本質を見定める - イデアの昼と夜
  • 『パイドロス』が語っていること:プラトンのテクストにおける「本来的な仕方で実存すること」の契機について - イデアの昼と夜

    私たちは、「先駆すること」の契機のうちに含まれる「時間性」の問題について、すでに見てきた。『存在と時間』の議論の方へと格的な仕方で戻ってゆく前に、今回はこの論点を深めておくためにもう一人、別の哲学者のテクストを見ておくことにしたい。 「ちがった説を受け入れることは、ソクラテス、不可能でしょう。とはいうものの、あなたが言われたのは、なんともなみなみならぬ仕事のようですね。」 プラトン『パイドロス』の、最終部分近くの一節(272B)である。ここで、ソクラテスの対話相手であるパイドロスが語っているのは、彼らがそれまで討議していた「真の弁論術を身につけるために歩まなければならない、限りなく長い道のり」のことである。 ソクラテスの口を通してプラトンが語っていたのは、次のようなことである。真の弁論術とは相手を騙すようなものではなく、語りかける相手に対してしっかりとした確信を与えつつ、その相手の人格の

    『パイドロス』が語っていること:プラトンのテクストにおける「本来的な仕方で実存すること」の契機について - イデアの昼と夜
  • 「実存」の概念をめぐる探求が辿り着いた、比類のない自由:「先駆」に関する議論を締めくくるにあたって - イデアの昼と夜

    「死への先駆」をめぐる議論に決着をつける時が、ようやくやって来たようである。少し長くなってしまうが、最初に、ハイデッガー自身が探求を総括している部分を引用しておくこととしたい。 「実存論的に投企された、死へとかかわる来的な存在の性格づけは、つぎのように総括される。先駆することによって現存在に対して、〈ひとである自己〉のうちへと喪失されたありかたが露呈され、現存在はそのことで、配慮的に気づかいながら顧慮的に気づかうことに第一次的には依拠することなく、じぶん自身でありうる可能性のまえに置かれることになる。このじぶん自身とは、情熱的な、〈ひと〉の錯覚から解きはなたれており、しかも事実的でそれ自身を確実なものとし、そのさい不安をおぼえているような、死へとかかわる自由におけるじぶん自身なのである。」(『存在と時間』第53節より、強調部分は引用者による) ここで語られている「死へと関わる自由 Fre

    「実存」の概念をめぐる探求が辿り着いた、比類のない自由:「先駆」に関する議論を締めくくるにあたって - イデアの昼と夜
  • リアルな人間として生き始めること:「世界内存在」の概念をめぐって - イデアの昼と夜

    前回の記事で取り上げた一節をもう一度引用しつつ、そこに含まれている「世界内存在を確実なものとする」という表現について、掘り下げて考えてみることにしたい。 「死を真とみなして保持することー死はそのつどじぶんに固有な死であるーは、世界内部的に出会われる存在者や、形式的な諸対象にかんするあらゆる確実性とはべつのありかたを示し、またそうした確実性よりも根源的なものである。なぜならそれは、世界内存在を確実なものとするからだ。」(『存在と時間』第53節より) すでに見たように、日常性における人間の「死へと関わる存在」は、死について考えるのを「それとなく避けること」によって特徴づけられていた。〈ひと〉は確かに、「人間は誰でもいつか死ぬものだ」という事実を否定することはないけれども、「他の誰でもない一人の人間であるわたし自身が、いつの日か確実に死ぬ」という事実のことは考えないようにしている。〈ひと〉は、死

    リアルな人間として生き始めること:「世界内存在」の概念をめぐって - イデアの昼と夜
  • 「この賭けには、勝つという以外の結果はありえない」:ブレーズ・パスカルは「実存することの奥義」について、何を語っているのか - イデアの昼と夜

    『パンセ』断片233をめぐる私たちの検討も、終わりに近づきつつある。パスカルが「賭けの奥義」とでも呼びうるようなモメントについて語っている箇所を引用しつつ、「実存は賭けである」を存在論的なテーゼとして仕上げるべく試みてみることとしたい。 「以前には、君と同じように縛られていたのが、今では持ち物すべてを賭けている人たちから学びたまえ。[…]彼らが、まず始めた仕方にならうといい。それは、すでに信じているかのようにすべてを行うことなのだ。[…]そうすれば、君はおのずから信じるようにされるし、愚かにされるだろう。」(『パンセ』ブランシュヴィック版、断片233より。強調部分は引用者による) 前回の記事と同じく、まずはパスカル自身が行っている議論の文脈に即して考えてみる。彼によれば、「神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という二者択一をめぐる賭けに成功を収めるための唯一の方法、それは上に引用

    「この賭けには、勝つという以外の結果はありえない」:ブレーズ・パスカルは「実存することの奥義」について、何を語っているのか - イデアの昼と夜
  • 「見よ、すべてが新しくなったのである」:賭けに出ることへの「ためらい」の問題に対する、『パンセ』の処方箋 - イデアの昼と夜

    「賭け」に関する議論も、そろそろ大詰めである。『存在と時間』の方に戻ってゆくという意味でも、私たちは最後の主題として、次のような問いについて改めて考えておくことにしたい。 問い: 「『実存は賭けである』というテーゼについては、確かに了解した。しかし、日常性の側から見るならば、そのようにスケールの大きな話を振られたとしても、恐らくは、どうしてよいか分からないものと思われるのである。『賭けに出ることへのためらい』という問題については、どう考えたらよいのか?」 まずはパスカル自身の議論に即して、問題を整理してみる。今ここに、「神は存在するのか、それとも、存在しないのか?」という二者択一に際して、「神は存在する」の側へと傾きかけている人がいるとしよう。すなわち、その人は「神の存在を信じて生きる」という、その人にとっては未知の生の可能性に向き合っている。いまだ確信するまでは至っていないとはいえ、彼あ

    「見よ、すべてが新しくなったのである」:賭けに出ることへの「ためらい」の問題に対する、『パンセ』の処方箋 - イデアの昼と夜
  • 「ルビコンは、渡られねばならない」:「先駆」は現存在であるところのわたしを、単独者であることのうちへと呼び覚ます - イデアの昼と夜

    死の可能性のうちへと先駆することによって〈ひと〉から引き離されるのと同時に、現存在であるわたしの目の前には、一つの根底的に新しい経験の領野が開けてくることになる。それこそは、「単独者として自己を生きること」の圏域に他ならない。 「先駆することによって現存在が理解するのは、端的にじぶんのもっとも固有な存在が問題であるような存在可能を、現存在はひたすらじぶん自身の側から引きうけなければならないということなのである。死はじぶんに固有な現存在に無差別に『ぞくしている』のではない。むしろ死は、現存在を単独な現存在として要求する。先駆にあって理解された、死の関連を欠いたあり方によって、現存在は現存在自身へと単独化される。」(『存在と時間』第53節より) まずは、これまでの議論の流れを再確認しておくことにしよう。「死への先駆」は実存のリミッターを外すことによって、現存在であるわたしを、生の例外状態的次元

    「ルビコンは、渡られねばならない」:「先駆」は現存在であるところのわたしを、単独者であることのうちへと呼び覚ます - イデアの昼と夜
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