戦国武将・明智光秀が1582年(天正10)年6月2日、主君の織田信長を討った「本能寺の変」。教科書にも載る歴史上の出来事だが、光秀が前夜に京都市に隣接する京都府亀岡市の亀山城から出陣したことは意外に知られていない。謀反を起こす前の光秀はどんな思いを抱いていたのだろうか。今年の大河ドラマの主役になり例年になく脚光を浴びるなか、438年前に光秀の軍勢が夜通し京の本能寺へ向かったルートを記者3人がたどってみた。 ■亀山城跡の隣接地から出発 《亀岡は明治維新まで「亀山」と呼ばれていた。明智光秀は1577(天正5)年、丹波攻略の拠点として亀山城を築城した》 午後10時 JR亀岡駅正面、南郷公園(亀岡市古世町)に、昨年5月にお目見えした「明智光秀公像」。亀山城の跡に隣接したこの場所を出発点とした。満月がこうこうと夜道を照らす。気分が高揚し、馬のいななきや軍勢のたけだけしい声が聞こえた気がした。 <15
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