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戦艦に関するa96nekoのブックマーク (12)

  • 榛名 (戦艦) - Wikipedia

    主機には川崎造船所と技術提携を結んでいたジョン・ブラウンのブラウン・カーチス式直結タービンを、川崎造船で製造したものを榛名のみ搭載していた。これは一つのタービンで圧力の異なる複数のシリンダーに分けて出力するエンジンで、それぞれのシリンダーを推進軸に直結して1基辺り2の推進軸を動かすものであった。 兵装上の特徴としては、主砲には従来のヴィッカース製ではなく、国産の四一式36センチ砲(正確には14インチ=35.6センチ砲)が、艦より採用された。 また、副砲は両舷の甲板よりやや低い砲郭に片舷8門計16門を新造時に装備していたが、第一次世界大戦以降、戦艦が主砲で撃ち合う状況では射程が短く射界の狭い小口径砲が利用される機会が激減し、後に重量軽減や不沈対策の名目で撤去されている。まず1932年には対空機銃増設による重量軽減のため両舷最前方の1・2番副砲を撤去、太平洋戦争中の1944年2月前後にさら

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  • 伊勢 (戦艦) - Wikipedia

    伊勢(いせ)は、日海軍の戦艦で伊勢型戦艦の1番艦である。当初は扶桑型戦艦の3番艦として建造が予定されていたが、扶桑型に砲力や防御力、運用面等で問題点が生じたため再設計が行われ[1]、準同型艦の伊勢型の一番艦として建造された。太平洋戦争後半には戦術変更に伴って、姉妹艦の日向と共に後部主砲塔二基を撤去し、航空機用作業甲板、格納庫、射出機を設け、搭載機数22機という軽空母なみの航空打撃力を持つ航空戦艦へと改装された。 艦名の由来は三重県の伊勢国からで、戦後海上自衛隊のひゅうが型護衛艦の2番艦「いせ」に引き継がれた。歴代艦長として山口多聞、古賀峯一といった後の著名指揮官も輩出した。 艦歴[編集] 海軍省は1914年(大正3年)10月12日に仮称艦名第五号戦艦を伊勢と命名[2]し、1915年(大正4年)5月10日、川崎重工業神戸造船所で起工[3]。1916年(大正5年)11月12日に進水する[4]

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  • 軽巡洋艦 - Wikipedia

    この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。 脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2017年8月) 軽巡洋艦は防護巡洋艦の後継として登場した、火砲を主兵装とし、軽度な舷側装甲を施した比較的小型の巡洋艦をいう。日語では軽巡と省略される場合もある。 「軽巡洋艦」とは「軽装甲巡洋艦」(Light Armoured Cruiser)の略であり、後に巡洋戦艦に発達した装甲巡洋艦と対置される。 その名前から軽巡洋艦と対をなす重巡洋艦(Heavy Cruiser)は、第一次世界大戦後のワシントン海軍軍縮条約の結果として軽巡洋艦から派生したものである。 世界共通の「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区別する基準が生まれたのは後述するロンドン海軍軍縮条約において以降であり、それまでは各国海軍が独自の基準で「重巡洋艦」と「軽巡洋艦」を区

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  • 朝日 (戦艦) - Wikipedia

    日露戦争時代の主力艦[5]。イギリスで建造され[7]、1900年(明治33年)7月末に竣工した[8][9]。日露戦争における海上戦闘(黄海海戦、日海海戦等)では、主力艦として参加する[10][11]。なお旅順港閉塞作戦で戦死した広瀬武夫少佐は、朝日の水雷長であった[12][13]。 1920年(大正10年)9月、朝日は戦艦から海防艦へ類別変更された[9][14]。1922年(大正12年)2月、ワシントン海軍軍縮条約で非戦闘用として保有を許され[15]、4月より練習特務艦となる[11][16]。後日、潜水艦救難艦に改造される[17]。1937年(昭和12年)8月、工作艦に類別変更された[9][18]。工作艦として日中戦争、太平洋戦争に参加する。南方作戦が一段落したあとの1942年(昭和17年)5月下旬、シンガポールから日土へ帰投中にアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受け、沈没した[9]。船籍港

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  • カナダ (戦艦) - Wikipedia

    船体形状はアイアン・デューク級と同じく短船首楼型船体で、艦首形状はこの頃のイギリス式設計の特徴である艦首浮力を稼ぐために水線下部は前方向にせり出した形状となっていた。傾斜のまったくない艦首甲板に35.6cm連装砲塔を背負い式で2基装備し、2番砲塔基部から上方から見て菱形の上部構造物が始まり、甲板一段分上がって三角柱型の艦橋構造を基部として頂上部と中段に見張り所を持つ三脚式の前檣が建っていた。その背後には間隔の狭い2煙突が立つ。煙突の周りは艦載艇置き場となっており、煙突の間に設置されたジブ・クレーン1基により運用された。2の煙突は前後で大きさが異なっており、1番煙突の断面は円形だが2番煙突は前後に長い小判型をしていた。2番煙突の背後から中部甲板上に3番主砲塔が後向きに1基、その後ろに後部見張り台と単脚式の後檣が立ち、艦尾甲板上に35.6cm連装砲塔が後ろ向きに背負い式配置で2基が配置され

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  • 戦艦ミズーリ記念館公式サイト

    戦艦ミズーリ記念館の公式ホームページ。第二次世界大戦の終結の舞台となった戦艦ミズーリ記念館は、現在はパールハーバーを見守るように係留しております。日語による各種ツアーや記念館のインフォメーションなど。スタンダードツアー ツアーガイドが日語でお客様に戦艦の見所を紹介しながら見てまわる約35分間のツアーです。 ツアー詳細

  • ドレッドノート (戦艦) - Wikipedia

    英語版記事を日語へ機械翻訳したバージョン(Google翻訳)。 万が一翻訳の手がかりとして機械翻訳を用いた場合、翻訳者は必ず翻訳元原文を参照して機械翻訳の誤りを訂正し、正確な翻訳にしなければなりません。これが成されていない場合、記事は削除の方針G-3に基づき、削除される可能性があります。 信頼性が低いまたは低品質な文章を翻訳しないでください。もし可能ならば、文章を他言語版記事に示された文献で正しいかどうかを確認してください。 履歴継承を行うため、要約欄に翻訳元となった記事のページ名・版について記述する必要があります。記述方法については、Wikipedia:翻訳のガイドライン#要約欄への記入を参照ください。 翻訳後、{{翻訳告知|en|HMS Dreadnought (1906)|…}}をノートに追加することもできます。 Wikipedia:翻訳のガイドラインに、より詳細な翻訳の手順・指針

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  • 金剛型戦艦 - Wikipedia

    金剛竣工間もなく、第一次世界大戦が勃発した。イギリスと日英同盟を結んでいた日も連合国軍として参戦することとなり、金剛ら新鋭の巡洋戦艦群にも出撃命令が下された。当時金剛型4隻から成る第三戦隊は世界最強とうたわれており、北海・地中海方面のドイツ海軍に手を焼いていたイギリス海軍から、その一時貸与を申し入れられた。これは断ったものの、太平洋や中国方面のドイツ東洋艦隊の動きを封じるべく活動を行った。 第一次世界大戦中の1916年5月、海軍史上有名なユトランド沖海戦が起こり、これが巡洋戦艦たる金剛型のあり方を大きく変えることとなった。海戦自体は史上最大規模の砲撃戦であるにも拘らず、前衛部隊として矢面に立った巡洋戦艦に被害が集中し、両軍合わせて4隻も撃沈されるというものであった。特にライオン級の3番艦「クイーン・メリー」が、ドイツ巡洋戦艦「デアフリンガー」からの唯2発の直撃弾によって轟沈したことは衝撃

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  • 霧島 (戦艦) - Wikipedia

    11月12-13日、挺身艦隊とダニエル・J・キャラハン少将・ノーマン・スコット少将指揮下の米艦隊との間で夜間戦闘が発生した。戦闘直前、挺身艦隊は長良、比叡(旗艦)、霧島の縦陣を中心に、旗艦右舷側に第6駆逐隊(暁、雷、電)が航行し、旗艦左舷側に第十六駆逐隊(天津風、雪風)・第六十一駆逐隊(照月)が航行して団子状となっており、旗艦右前方に第二駆逐隊第二小隊(夕立、春雨)が先行し、旗艦右後方に第四水雷戦隊朝雲・第二駆逐隊第一小隊(村雨、五月雨)が航行していた[18]。夕立の米艦隊発見報告から間もなく戦闘が始まり、比叡、暁が探照灯を照射した。混戦の中、比叡、霧島は他艦と共同して重巡洋艦サンフランシスコ (USS San Francisco, CA-38)と軽巡洋艦アトランタ(USS Atlanta, CL-51)を撃破した。だが、探照灯を使用した比叡は集中攻撃を受けサボ島周辺にて大破し、操舵不能状

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  • 陸奥 (戦艦) - Wikipedia

    陸奥(むつ、MUTSU)は[6]、大日帝国海軍の戦艦[注 1]。艦名は青森県から福島県にかけての旧国名・陸奥国に由来する[8][注 2]。姉妹艦(英語版)「長門」とともに帝国海軍の象徴として、長く日国民から親しまれたものの、1943年(昭和18年)6月8日に主砲火薬庫から爆発を起こして沈没した[10]。終戦後、艦体や武装の一部が浮揚された[11]。 軍艦 陸奥は長門型戦艦の2番艦[12][注 3]。八八艦隊計画二番手である[14]。ネームシップの「長門」と共に、日の力の象徴として日国民に長く愛された[注 4]。 横須賀海軍工廠で建造[16]。 また竣工当時は世界に7隻しか存在しなかった40cm砲(16インチ砲)を搭載した超弩級戦艦であり、『世界七大戦艦』と呼ばれた[注 5]。 長門型戦艦2隻(陸奥、長門)は交互に連合艦隊旗艦の任にあったため、知名度は高かった[18][注 6]。 戦

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  • 戦艦陸奥主砲 船の科学館

    戦艦陸奥主砲 船の科学館 船の科学館の敷地内には戦艦陸奥の主砲が展示されている。 これは昭和45年に引き上げられた4番砲塔の主砲に使用されていた、 四十五口径三年式四十サンチ砲Ⅱ型である。 全長18.8m、重量102t、射程は37.9kmで、 東京駅から発射した場合横浜を軽く飛び越えて戸塚の手前に着弾するそうだ。 陸奥主砲後ろから 陸奥主砲前から 目次に戻る

  • 戦艦陸奥の主砲 -お台場 船の科学館-

    お台場にある船の科学館の庭に展示してある 日海軍の戦艦陸奥の主砲です。 戦艦陸奥は長門型戦艦の2番艦に当たり 当時は世界最強の戦艦群ビック7の1隻と言われました。 展示してあるは沈没した際の陸奥に搭載されていたもので 第4砲塔の物だそうです。 この主砲の口径は41センチで 正式名称は「四十五口径三年式四十一糎砲」です。

    戦艦陸奥の主砲 -お台場 船の科学館-
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