2009年、57歳のときの坂本さんはいった。 「さて自分の人生――手垢のついた言葉で、あまり使いたくないが、他の適切な言葉も見つからない――をこうやって振り返ってみると、つくづく僕という人間は革命家でもないし、世界を変えたわけでもなく、音楽史を書き変えるような作品を残したわけでもない、要するにとるにたりない者だということが分かる」 この年に新潮社から出版された『音楽は自由にする』という著書の「あとがき」での述懐である。ちなみに、この本の表紙にかかった帯には、「初めての本格的自伝」という惹句がある。 けれど、その言にもかかわらず、坂本さんはこのときすでに、音楽文化革命の旗手であったし、世界の変革者であったし、音楽史にあらたな1ページを書き加えた者であった。 いっぽう、おなじ本の裏表紙側の帯には、「子どものころ、『将来何かになる』ということが、とても不思議に思えた」という文句が印刷されている。
2009年、57歳のときの坂本さんはいった。 「さて自分の人生――手垢のついた言葉で、あまり使いたくないが、他の適切な言葉も見つからない――をこうやって振り返ってみると、つくづく僕という人間は革命家でもないし、世界を変えたわけでもなく、音楽史を書き変えるような作品を残したわけでもない、要するにとるにたりない者だということが分かる」 この年に新潮社から出版された『音楽は自由にする』という著書の「あとがき」での述懐である。ちなみに、この本の表紙にかかった帯には、「初めての本格的自伝」という惹句がある。 けれど、その言にもかかわらず、坂本さんはこのときすでに、音楽文化革命の旗手であったし、世界の変革者であったし、音楽史にあらたな1ページを書き加えた者であった。 いっぽう、おなじ本の裏表紙側の帯には、「子どものころ、『将来何かになる』ということが、とても不思議に思えた」という文句が印刷されている。
音楽家の坂本龍一(さかもと・りゅういち)さんが3月28日亡くなったことが2日、分かった。71歳だった。 ◇ ◇ ◇ 初めてインタビューしたのは音楽も担当した映画「ラスト・エンペラー」に出演した直後の87年だった。 YMOでの活躍に続き、映画音楽で世界的評価をすでに確立していたが、「スポーツ新聞ですか、何かすごく緊張するな」とハンカチを額に当てながら切り出したことを覚えている。 イタリアの巨匠ベルトリッチ監督の演出には「現場で3日間くらい待たされる。片腕の役だから、しびれて仕方が無かった」。共演のジョン・ローンについては「役作りはビョーキですよ。憎み合う設定だから口をきいてくれないし、撮影の合間もつらく当たる。ま、勉強にはなりましたけど」と明かした。「教授」と呼ばれた人の意外な愚痴に人間くささを感じた。 「戦場のメリークリスマス」、そしてこの作品と世界的な大作の音楽担当が続いたが
1983年5月、映画「戦場のメリークリスマス」の出演者らと笑顔を見せる坂本龍一さん(右端)。左端はデビッド・ボウイさん、右から2人目は大島渚監督=パリ(AP=共同) 音楽家の坂本龍一さんの死去で、映画「戦場のメリークリスマス」で共演した北野武さんは「仲間がみんないなくなってしまい、『戦場のメリークリスマス』は俺だけになってしまいました」との談話を3日発表した。 【写真】映画「戦場のメリークリスマス」製作発表で記者会見する坂本龍一さん、大島渚監督、ビートたけしさん 1982年 北野さんの談話は以下の通り。 ただただショックで残念で仕方がなく言葉もありません。「戦場のメリークリスマス」の大島渚監督が亡くなってデビッド・ボウイが亡くなって、坂本龍一さんが亡くなって仲間がみんないなくなってしまい、「戦場のメリークリスマス」は俺だけになってしまいました。
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