「綿を打つ」――実際に何をどうする行為なのかはわからない。ただ、うち(生家)は、前にも書いたか知れないが、県議とか何とか組合の連中とかがわりと頻繁に出入りするような家で、だいたいいつなんどき20人くらいの宴席が始まってもいいように、いろんなものがしつらえてあった。 * 昭和50年代に増築して「新しい部屋」(新式銃みたいな名前だ)と僕ら孫は呼んでいた。離れの和室、10畳、床の間付きが2つ、渡り廊下があって、縁側からは鯉が見える。奥には脚踏み式のシンガーミシンが鎮座しており、そのさらに奥にある引き戸に、座布団が、布団が、仕舞われてあった。南向きの右手が鯉の池で左手が障子である。職人が来て障子を張り替えるときの日差しの暖かく鋭い光の差し込みを、40年が経ったいまでも僕はまざまざと思い出す。 * 綿打ちには、職人は来なかった。気がする。ばあさんは自分で打っていたのでもなかった。綿屋に出したのだろう