各国の古典映画 映画が世界各地で作られるようになってからは、映画芸術大国といえる7カ国が、それぞれ自国の古典ともいうべき作品を残していった。これらの作品は現在では究極の映画として神格化されている。
ジャン・コクトー 『オルフェ』 オーソン・ウェルズ 『審判』 『オーソンウェルズのフェイク』 ルイス・ブニュエル 『自由の幻想』 『ブルジョアジーの密かな愉しみ』 アンリ・ジョルジュ・クルーゾー 『恐怖の報酬』 『悪魔のような女』 ジャック・ベッケル 『穴』 ヘクトール・バベンコ 『蜘蛛女のキス』 アンリ・コルビ 『かくも長き不在』 ジャン・リュック・ゴダール 『女と男のいる舗道』 『アルファビル』 マイク・ニコルズ 『ヴァージニアウルフなんかこわくない』 『キャッチ22』 ジャン・ジャック・ベネックス 『ディーバ』 『ベティ・ブルー』 リュック・ベッソン 『ニキータ』 アンジェイ・ワイダ 『灰とダイヤモンド』 『大理石の男』 ヴェルナー・ヘルツォーク 『アギーレ/神の怒り』 『フィッツカラルド』 ブライアン・デ・パルマ 『殺しのドレス』 テオ・アンゲロプロス 『旅芸人の記録』 ニール・ジ
去る四月十日、元町映画館での浅田彰さんと市田良彦さんによる『シネフィルでない人のためのゴダール入門』というトークショーに行ってまいりました。今日はその内容です。 実はこれをブログに書いてよいのやらどうやら、ちょっと迷いました。というのは、両氏がおっしゃったことを私が文字にするということを両氏から正式に許可されているわけでもないし、録音媒体から書起したものではなく記憶に頼って書くことになりますので、お二方の真意からずれてしまう可能性もありまして、それはちょっとよろしくないことだなあと思ったのです。しかしながら、ツイッターなどを拝見していますと、当日行けなかった方も沢山いらっしゃるようですので、とりあえず、自分の記録のためにもということで書くことにしました。 先にも述べましたように、お二方が仰ったことなのですが、私のフィルターを通して解釈されていますので、もしかしたら多少の誤解も含んでいるかも
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 出典検索?: "ストローブ=ユイレ" – ニュース · 書籍 · スカラー · CiNii · J-STAGE · NDL · dlib.jp · ジャパンサーチ · TWL (2024年4月) ストローブ=ユイレ(Straub-Huillet、もしくはStraub/Huillet)は、フランス国籍の映画監督。 ジャン=マリー・ストローブ(Jean-Marie Straub、1933年1月8日 メス - 2022年11月20日 ロール)と、ダニエル・ユイレ(Danièle Huillet、1936年5月1日 パリ - 2006年10月9日 ショレ)の二人が完全な共同作業で映画を制作し、通常は連名標記される。 なお、私生活において両名は夫婦関係
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宮台真司 @miyadai 湊かなえ原作、中島哲也監督『告白』を試写で見ました。期待を大きく超える素晴らしい作品です。『嫌われ松子の一生』で大々的に展開された中島監督の方法論が、そのまま再利用されています。『松子』も「これは映画じゃない」という否定的意見が沸騰して賛否両論でしたから、『告白』もそうなるかも。 宮台真司 @miyadai 08年に本屋大賞を授賞した原作をお読みになった方は多勢いるでしょう。前年に小説推理新人賞を受賞した「聖職者」という短編を核として、「聖職者」森口悠子先生以外に、森口先生の娘を殺害した犯人A(修哉)と犯人B(直樹)そしてAを“庇護う”美月らそれぞれの告白短編から構成された小説です。 宮台真司 @miyadai 中島監督独特の方法論とは、CF制作を通じて磨き上げた「圧縮化⇒距離化⇒寓話化」の利用です。第一に、15秒CFのような圧縮表現が、登場人物の主観や関係性や
★キューブリック、その視覚的アプローチ 映画監督は、自己の内包するヴィジョンを可視化するために最大限の努力を尽くす。 しかし、己れのイマジネーションに忠実であろうとすればするほど、製作費や技術力、さらには製作期間という「商業映画」には欠かせぬ様々な“物理的制約”が大きな障壁となり、妥協を余儀なくされる。そのような状況の果てに至る軋轢のドラマもまた、映画というメディアの醍醐味と言えるのだが。 スタンリー・キューブリックという無比無双の天才作家も例外ではなく、己れのイマジネーションを優先するうえで創作上の現実的障害に遮られ、そのことに対する抵抗感が人一倍強かった映像作家といえよう。 これは傀儡監督に留まり、作品の全権を握ることができなかった『スパルタカス』('60)以降、プリ・プロダクションからパブリシティまでを個人で統括する姿勢に顕著だが、なかでも自らの代表作であり、
デジタルメディアの台頭とともに「あらゆる映画が見られる」ようになったといわれる今日、映画批評はどう変わったのか。その本道はどこに求められるべきか。蓮實重彦氏に聞く。 (インタビュー/構成:三浦哲哉) 目次 1.データベース化の幻想 2.反復する顔、しない顔 3.70年代の映画批評 4.リアルタイム批評のすすめ──マイケル・マンか、ガス・ヴァン・サントか 1.データベース化の幻想 ──1994年に『シネティック』の関口良一さんがなされたインタビューの中で、蓮實先生は、あらゆるものが見られる状況になったことで、映画を巡る言説は多様化するのではなく、かえって単調なものになっている、と述べておられます[1]。それから約10年が過ぎましたが、大状況としてはこの発言を追認せざるをえないかと思います。今回のインタビューでは、まず先生が述べられたこの見解を念頭に置きつつ、映画批評における歴史性について、メ
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