それなりの年月を実体験しなければ見えない風景や俯瞰できない全体像がある。現在、広く定着しており、慣れ親しんだ自明性を持って受け入れられている思考の枠組みや語の用法が、ともすればそのようになっていなかった「もしも」の可能性を見通せてしまうゆえに、現在の風潮に対して「どうしてこうなった」と嘆息せざるをえないような状況が。 昨今の批評が社会学に漸近するのはなぜか?いや、そもそも社会批評と社会学は何が違うのか?作品や社会問題について論ずるに際して「批評」なる言語行為が準拠する価値基準や作法はいかなるものか?ここで「漸近」と表現したのは、昨今の「批評」を自称する言論のスタイルが、社会科学や人文科学のタームを織り交ぜつつ、それでいて学術誌に掲載可能な実証度を必ずしも必要としないスタイル、言い換えれば好事家の語りとアカデミズムの中間に広がる真空を漂うことで、現代的な事象を分析する言論スタイルを維持してい