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萩原朔太郎に関するainoutanoehonのブックマーク (21)

  • 新しい詩「レモンお月さま、あおい星」、「一日」をHP公開しました。

    私の詩のホームページ「愛のうたの絵ほん」の「虹 新しい詩」に、新しい詩の花を咲かせました。 (下記の詩のタイトルをクリックするとHPをお読み頂けます)。 ・虹 新しい詩 中篇詩(51~100行) 詩 「レモンお月さま、あおい星」 ・虹 野の花・ちいさなうた 短詩(1~25行) 詩 「一日」 お読み頂けましたら、とても嬉しいです。

    新しい詩「レモンお月さま、あおい星」、「一日」をHP公開しました。
  • 詩想(六七) 詩と文学。心の足跡。

    私の詩想を、ツイートからひろいあつめました。 ☆ 現実逃避は、こんな世界でも、生きようと、こころ回復するために、とても大切なこと。 知らない物より、知る人に、わたしは共感します。 逃避するしかないときは逃避しないと。 だいじょうぶ、感じたら、人間らしく生きる人。 ☆ 現実逃避。 逃避という言葉に、良くない、悪い、駄目という、否定のニュアンスすりこまれるけど、ほんとはこころゆたかな現実からの旅。 ☆ 誰もを押し込めるのが楽だから為政者や慣習の管理社会、現実なんて狭い檻から、人間らしく望むままに旅して探して感じて考えて感動して見つけ創ることができる旅。 ☆ 決められた時間割、敷かれたレールから、こころの声に素直に外れて道草する勇気。 とても大切。 現実逃避と言われようが。 ☆ 為政者や慣習が押し込めようとしがちな、管理社会の檻に飼い慣らされないため。 知らなかった花や小鳥と出会える自分の足跡。

    詩想(六七) 詩と文学。心の足跡。
  • 詩想(六一) 詩と文学。心の足跡。

    私の詩想を、ツイートからひろいあつめました。 ☆ 就任いらい、近隣はじめ遠く世界中に、敵を生み出し続ける、愚か者が、なんと首相。 金ばかり撒き散らかし。国内の貧しさには目を閉ざし、お友だち以外の声に耳閉ざし。 ☆ 積み上げたのは、威勢と見た目ばかりいい、嘘の山ばかり。 ☆ 責任者だと偉ぶり、生活者をいじめ、切り捨て、見殺しにして、責任感じずとらずに、また嘘を吠えて。 幼稚園から真面目に学びなおしてほしいひと。 なんと、首相。 ☆ 憎しみの連鎖を断ち切ること。 憎しみの連鎖を断ち切ること。 ☆ 殺しあいの連鎖を断ち切ること。 殺しあいの連鎖を断ち切ること。 ☆ 母親の願いを力づけるのが、役割立場にふさわしいひと。とてもその器ではない。 ☆ 強きに媚びて、弱きをくじく。恥ずかしい。 ☆ 「強きに媚びて」、「母親の願いを」他一連のツイートは、主語「いま首相の職にあるもの」と「現政権」への批判の言

    詩想(六一) 詩と文学。心の足跡。
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2015/02/10
    詩想(六一) 詩と文学。心の足跡。
  • 音律構成の織物『恋愛名歌集』(四)萩原朔太郎

    萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して、日語の歌の韻律美をより深く聴きとる試みの4回目です。最終の今回はその韻律美を、短歌は総合的な音律構成の織物になっている、という視点で考えます。 朔太郎は、日語の歌の韻律の特色を「柔軟自由の韻律」であることに、「母音、子音の不規則な―と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、特殊な美しい音律を調べる」ことに、見出しました。 その発見のうえで彼は、「短歌の韻律形式の自然方則、音律構成の規範」を感じ取り、典型美として次のように描き出しました。短歌を作品としてその言葉の音律構成を総合的に全体として感じとろうとする視点には学ぶべきものが豊かにあると、私は思います。そのエッセンスを抜き出し整理してみます。 1.短歌の韻律学の一般方則の原形。 ① 第一句第一音 ●拍節の最強声部たる第一句第一音と、同じく最強声部たる第四句第一音(下句初頭)と

    音律構成の織物『恋愛名歌集』(四)萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。音律構成の織物『恋愛名歌集』(四)萩原朔太郎。
  • 調想不離の美『恋愛名歌集』(三)萩原朔太郎

    萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して、日語の歌の韻律美をより深く聴きとる試みの3回目です。前回は頭韻や脚韻を考えましたが、今回はより微妙で柔軟自由な自由押韻と、言葉の音色・色調・ニュアンスを感じとりつつ、想(内容)と音象の望ましい関係について考えます。 1.微妙で柔軟自由な自由押韻 日語の韻律美についても頭韻や脚韻は、各句(呼吸)の始りと終りなので、その響き合いはわかりやすく感じます。朔太郎はさらに踏み込んで、「柔軟自由な自由押韻」を聴きとります。彼は、「音楽的で、韻律上の構成が非常に美しく作られている」例として次の歌をあげます。 みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ Mika-No-hara Wakite-nagaruru  Itsumi-kawa Itsumi-kitoteka  Koishi-karuran この歌の韻律美は、「カ行Kの音と母音Iとを主音にして、一種の

    調想不離の美『恋愛名歌集』(三)萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。調想不離の美『恋愛名歌集』(三)萩原朔太郎。
  • 頭韻や脚韻『恋愛名歌集』(二)萩原朔太郎

    萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して、日語の歌の韻律美をより深く聴きとる試みの2回目です。前回は音数律、実数律を考えましたが、今回からより微妙な言葉の音色に耳を澄ませます。 日語の韻文のこの特徴について朔太郎は、「解題一般」で次のようにわかりやすく記しています。 「日語には建築的、対比的の機械韻律が殆んどなく、その点外国語に比し甚だ貧弱であるけれども、一種特別なる柔軟自由の韻律があり、母音、子音の不規則な―と言うよりも非機械的な配列から、頭韻や脚韻やの自由押韻を構成して、 特殊な美しい音律を調べるのである。」 一般的には、日語の詩、韻文について、音数律以外の韻律があるとは語られません。歌と散文の違いは、三十一文字かどうか、詩と散文の違いは、語数のリズム(五七調や七五調)がなんとなく感じられるかどうか、くらいにしか考えられていなくて、これだけでは詩が「行分け散文」とけなされても、仕方な

    頭韻や脚韻『恋愛名歌集』(二)萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。頭韻や脚韻『恋愛名歌集』(二)萩原朔太郎。
  • 時代の情操と音律『恋愛名歌集』(一)萩原朔太郎

    百人一首の韻律美について前回考えたことを受け、萩原朔太郎の『恋愛名歌集』を通して短歌の韻律美を、複数回にわたり感じとっていきます。私は詩人ですが、日語で表現することでは、和歌、短歌と同じ水流にいるので、受け継がれてきた日語の歌の質と特質を学びつつ伝えたいと考えています。 萩原朔太郎は『恋愛名歌集』の序言でまず、広義の韻律とは「言語の魔力的な抑揚や節奏」であり、「詩と韻律とは同字義」との世界共通の詩の根定義を確認します。そのうえで彼は、「日語として、歌が構成し得る最上の韻文」であるとして、『恋愛名歌集』に書き表した主題と意義を次の言葉で述べます。 「古来の名歌と呼ばれる者が、いかに微妙な音楽を構成すべく、柔軟自由の不定則韻―それが日語の特質である―を踏んでるかを見よ。」 私はこのからこの微妙な音楽を教えられ感動しました。豊かなその内容からまず今回は、日語の韻文の最大の特徴と一

    時代の情操と音律『恋愛名歌集』(一)萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。時代の情操と音律『恋愛名歌集』(一)萩原朔太郎。
  • 小倉百人一首の韻律美。萩原朔太郎

    和歌は黙読されていなかったことは記録から確かです。では和歌がどのように声にのせ歌われてきたのか、私は知りたいと思います。百人一首のカルタで今も詠みあげられる節は清流のようにさらさらとした美しい流れですが、古い時代においては、また違う詠みかたをされていたような気がします。 現代人の感覚では遅すぎるくらいに、大きく呼吸の間をとり、かなりゆったりと詠まれたのではないでしょうか。どのような節がどの程度つけられたかは、時代によっても移り変わっただろうけれど、男性の声、女性の声、それぞれの美しさ、低音と高音の良さが生かされ美しく感じられた詠みあげ方、と考えると、音階のはっきりした節らしい節、曲調そのものに変化はあまりなく弱くて、詠みあげる声の強弱、緩急と間の取り方を主とした、声の響きそのものに耳を澄ませたのではないか、とも考えています。 萩原朔太郎は歌論「歌壇の問題 二」で「小倉百人一首のこと」との節

    小倉百人一首の韻律美。萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。小倉百人一首の韻律美。萩原朔太郎。
  • 詩語としての口語論。萩原朔太郎

    私は詩で表現しようとするとき、詩は詩でありたい、と当たり前のことを思っています。 この文章のように、散文でより確かに伝えられることは散文で伝え、詩でしか伝えられないもの、詩だからこそ伝えられるものを、詩で表現しよう、と願っています。 詩で表現しようとするとき、萩原朔太郎の詩についての徹底した思索に、学びとることが多くあります。 1935年の「口語歌の韻律に就いて」は、彼自ら「詩語としての口語論」と位置づける歌論ですが、彼が終生抱き続けた「詩とは何か」という問題意識に根ざした優れた考察です。 朔太郎は、「詩としての必然すべき韻律性」にこだわります。なぜなら、詩歌は「歌ふための文学」であり散文ではないからです、当たり前だけれど、とても根的なことだと私は考えます。 彼は自らの詩の創作で、「韻文的感銘」を表現しようと苦闘しました。 「口語の欠点は抑揚のないことである。」と、表現の手段としての口語

    詩語としての口語論。萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。詩語としての口語論。萩原朔太郎。
  • 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想 |芸術として亡びるということ。萩原朔太郎

    私は詩を思うときに、他の芸術、とくに言葉の芸術を意識することが大切だと考えています。萩原朔太郎の考察にはいつも詩歌全体からの視点があり、学ぶことが多いと感じます。 彼の1922年の歌論「歌壇の一大危機」を通して、芸術の存亡とその要因について考えます。 彼は「芸術が亡びる」という言葉で、「能楽の類と同じく、単に「美しき既成芸術」として追憶されるに止まり、それ自身が我我の生活の表現として時代的の意義をもつことは無」い状態になること、と捉えます。 例えばその定義でみると漢詩は、「芸術として亡びた」のではないでしょうか。 和歌と交互に、時には並列に、長い時を越え創作されてきた漢詩がどうして「芸術として亡び」てしまったのか。 漢詩は明治の新体詩に置き換えられ、口語自由詩にのみ込まれたのか? なぜだろう? 要因の一つには教育の変化があると思います。より深い要因は、朔太郎の次の言葉にあると私は考えます。

    愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想 |芸術として亡びるということ。萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。芸術として亡びるということ。萩原朔太郎。
  • 創作の動機。萩原朔太郎

    萩原朔太郎の『恋愛名歌集』などの歌論と俳論が、『萩原朔太郎全集』(筑摩書房)の第七巻にまとめられています 。彼は詩論『詩の原理』で、言葉の芸術である詩歌を愛する強い思いと独自の思索を書き記しましたが、短歌と俳句それぞれに焦点を絞った考察と提言も残しました。 短歌について歌壇の人々への問いかけと対話には、短歌に留まらず、歌、詩、詩歌を思い創作するうえで私が忘れずにいたいと思う詩歌の根が語られています。 朔太郎が「短歌雑誌」に投じた「現歌壇への公開状」で、短歌について述べていることは、詩歌全般に対して今投げかけられている言葉のように、私は感じます。 今ある短歌、俳句については詳しく知らないので憶測は述べられませんが、一人の詩人として、歌壇を「詩壇」、短歌を「現代詩」と置き換えて読んでしまうときにも、彼のこの主張は当てはまってしまうと感じます。20世紀なかば以降の著名な「現代詩」に限定しての、

    創作の動機。萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。創作の動機。萩原朔太郎。
  • 「日本詩と日本詩人」萩原朔太郎

    萩原朔太郎の詩論にある刺のような、「日詩と日詩人(草野心平君への書簡)」について考えます。この文章は、明治初頭の象徴派詩人の蒲原有明についての評論執筆依頼に対して、辞退しその理由を述べたものです。 晩年に近い時期の完全に醒めきった、人間関係への気兼ねもいっさいしない文章です。嘘を言う気はもうなくなった、自分が生きてきた過去さえ、徹底して批判した、目が据わった凄みを感じ、だからこそ現在にも通じる真実が含まれていると、私は考えます。 朔太郎は冒頭、過去に深く有明の芸術の鮮新さとフォルムの独創性に私淑したからそれだけのことなら書ける、と過去の自分を反省したうえで、けれども、有明の芸術が質的にはわからないから評論執筆を辞退する、有明の「ポエヂイが根拠している人生観や宇宙観の哲学」が不可解であり、「どんな生活意欲によってどんな必然の個性的モチーフで書かれたか」がよくわからないためだと述べます。

    「日本詩と日本詩人」萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。「日本詩と日本詩人」萩原朔太郎。
  • 戦時マスコミと詩と詩人。萩原朔太郎。

    萩原朔太郎の詩と詩論を数回にわたって取りあげました。著名ではありましたが彼は生活無能者とされながら詩に生きました。私はそのような朔太郎が好きです。 この「詩で想う」で取りあげる古典、詩人、詩集について、私は書く際に(学術的な細かさ自体に価値を求めるわけではなく)、詩人への礼節と偏向を避けるためと、自分が少しでも深く知りたいから、その詩人のすべては無理でも、できるかぎり主要な詩、評論は必ず読み返しています。 朔太郎について共感を多く述べてきましたが、『萩原朔太郎全詩集』(筑摩書房)を図書館で借りて読み、以下のことも記しておきたいと考えました。 朔太郎は、1937年12月13日付「東京朝日新聞」につぎの言葉(私にとって詩ではありません)を発表しています。題名は、「南京陥落の日に」。タイトルの通り、当時のマスコミ、大新聞が書き散らした、戦争勝利万歳の言葉です。それは国が戦さに勝って熱狂する臣民共

    戦時マスコミと詩と詩人。萩原朔太郎。
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。戦時マスコミと詩と詩人。萩原朔太郎。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(四)自由詩、日本語の「調べ」

    萩原朔太郎の詩論『詩の原理』を通して、文学、散文、詩、日の詩歌を見つめ直しています。今回は、「第十三章 日詩壇の現状 1、2」での自由詩についての考察を取り上げます。冒頭に私が教えられたこと、感じ考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初めに朔太郎は、日語による長篇韻文としての自由詩が生まれた軌跡を振り返ります。 「新体詩」からの模索を通して「七五調が破格を生み、単調のものが複雑になり、そして最後に、今日見る如き自由詩に到達した。」、そして次のように言い切ります。 「日の詩の有り得べき形式は、この三つの者――和歌と、俳句と、自由詩と――の外にない。」。 そのうえで朔太郎は伝統詩歌でない、若者たちが求めた新しい形式である自由詩そのものの考察を進めます。 まず、「形式上の区別からみて、自由詩は明らかに散文に属しているのだ。」と大きな把握をしたうえで焦点を絞り

    萩原朔太郎『詩の原理』(四)自由詩、日本語の「調べ」
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(四)自由詩、日本語の「調べ」。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(三)散文律の自由詩に行く

    萩原朔太郎の詩論『詩の原理』を通して、文学、散文、詩、日の詩歌を見つめ直しています。今回は、「第十二章 日詩歌の特色」についての続きです。冒頭に私が教えられたこと、感じ考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初めに朔太郎は、詩の言葉としての日語について、「日語には平仄もなくアクセントもない」から、その「音律的骨骼は、語の音数を組み合す外にない」と、日語を話し日の詩を読む人の基になっている感覚をとらえます。 そして、詩を書こうとするときいちばん自然にでてくるリズム、「五七調や七五調の定形律」は、これに基づいていると教えてくれます。 そのうえで、「語数律は、韻文として最も単調のもの」、「同韻の反復にすぎない」から、「少しく長篇にわたるものは、到底倦怠して聴くに堪えない。」とその弱点を見つめます。 私も詩作で、五七調を続けすぎ場合に、「交通標語」のような

    萩原朔太郎『詩の原理』(三)散文律の自由詩に行く
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(三)散文律の自由詩に行く。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(二)有機的な内部律(調べ)

    萩原朔太郎の詩論『詩の原理』を通して、文学、散文、詩、日の詩歌を見つめ直しています。今回は、「第十二章 日詩歌の特色」での、詩の言葉の美しさについての深い考察を取り上げます。 冒頭に私が教えられたこと、感じ考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初めに朔太郎は、西洋の詩がギリシャの叙事詩から始まったのと異なり、「日の詩の歴史は、古事記、日書紀等に現われた抒情詩《リリック》から出ている」と見て、「上古に発生した詩は、すべて無韻素朴の自由詩である。」と提起します。 その歴史的事実についての学識をわたしは持ちませんが、記紀歌謡には確かに、非定型な無韻の、美しい詩があります。日の詩の初めにそのような言葉があることを私は嬉しく感じます。(特に好きな詩を、別途「愛しい詩歌」に咲かせます)。 朔太郎は、日の詩がその後、支那の影響を受け「万葉集に見る七五音の定形律(

    萩原朔太郎『詩の原理』(二)有機的な内部律(調べ)
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(二)有機的な内部律(調べ)。
  • 萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし 

    萩原朔太郎が試行錯誤のすえにとりまとめた『詩の原理』は、彼の詩論の集大成であるとともに、文学、散文、詩、日の詩歌を考え味わううえで質的なことを教えてくれます。数回にわたり、その要旨を読み返しながら、私が教えられたこと、考えたことを記します。各回とも、冒頭に私の言葉を記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初回は、「第三章描写と情象」、「第十一章 詩に於ける逆説精神 2」にある、詩とは何か、について言葉です。 初めに朔太郎は、芸術の表現様式について、美術や小説は「描写」(知性の意味での表現)であり、音楽や詩歌は「情象」(感情の意味を語ろうとする表現)であると、その違いを明確にします。小説は知性による構築物で描写する言葉を積み上げない限りできないと私も考えます。 一方、詩は、「たとい外界の風物を書く時でも、やはり主観の気分に訴え、感情の意味として「情象」するのだ。」、そして

    萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし 
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。萩原朔太郎『詩の原理』(一)純詩、抒情詩の外になし。
  • 愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想 自由詩と定律詩。萩原朔太郎「自由詩のリズムに就て」

    前回に続き、萩原朔太郎の詩論を通して、詩って当は何なのか、考えます。冒頭に私が朔太郎の言葉に学び共感し考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 萩原朔太郎は、詩集『青』の付録として「自由詩のリズムに就て」を発表しています。『青』とそれに続く『蝶を夢む』が朔太郎の詩の中で私はいちばん好きです。彼が切り開いた口語自由詩の魅力と可能性を今なお伝え教えてくれる詩作品として、高村光太郎のまた異なった独自の世界と共に。 日語による文学が文語から口語に、言文一致の波をまともに浴びて変化していく渦中で、朔太郎は詩を、言葉を、日語を、口語を考え、その可能性を手探りし、心に響く詩をつくりました。 朔太郎はこの詩論でまず、定型詩と自由詩の違いの質を、自由詩は「耳に聽えない韻律(リズム)」を奏でることにあると、言います。定型詩と異なり自由詩は「感情位」「旋律位」の音楽だ、

    愛(かな)しい詩歌・高畑耕治の詩想 自由詩と定律詩。萩原朔太郎「自由詩のリズムに就て」
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。自由詩と定律詩。萩原朔太郎「自由詩のリズムに就て」。
  • 詩を思ふとき。萩原朔太郎『月に吠える』序

    今回から複数回にわたり、詩人・萩原朔太郎の詩論、詩歌についての思いについて、その要点を抽出し、考えたいと思います。詩歌を深く愛し、言葉・歌について深く考え、心に響く詩を作った朔太郎に私は、多くのことを学びました。 各回とも冒頭に私が朔太郎の言葉に学び共感し考えたことを記し、その後に朔太郎の言葉の原文を区分して引用します。 初回は、詩集『月に吠える』の序での、朔太郎の詩についての宣言です。 私が愛する詩人たちがみなそうであるように、朔太郎はまず詩は「感情をさかんに流露させること」と宣言します。詩は理屈ではないと。そして、「詩の表現は素樸なれ」と。良い詩、心に響く詩はみなそうだと、私は考えています。 次に音楽と詩。これについては次回以降何度も考えます。 そして、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』は、一人しかいない私を深く掘り下げて、世界中の何びとにも共通なる感情の泉につながること、「この道

    詩を思ふとき。萩原朔太郎『月に吠える』序
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩想。古典から現代までの詩歌、文学を詩人の感性で捉えるエッセイ。詩を思ふとき。萩原朔太郎『月に吠える』序。
  • 詩の音楽2作品。萩原朔太郎

    萩原朔太郎の詩論を、「詩を想う」で考えました。彼が独自の言葉で浮びあがらせた日の詩歌、自由詩の質は、次の言葉に要約されます。 「詩の詩たる真の魅力が、音律美を外にしてあり得ない。」 「自由詩の原理は、日語の『調べ』という一語の中に尽きる」 「自由詩は、不規則な散文律によって音楽的な魅力をあたえるところの、一種の有機的構成の韻文である。」 「有機的な内部律(調べ)とは、言語の構成される母音と子音とから、或る不規則な押韻を踏む方式であり日の歌の音律美は、全くこの点にかかっている。」 彼の詩はさまざまな音律美を響かせていますが、特に音楽性だけのために作り、音楽で感じさせる詩、印象の強い2作品を、詩集『定 青』から選びました。詩人としての、作品への強いこだわりが私は好きです。 詩「黒い風琴」は、リズムも含めたすべてが言葉の音楽そのものです。 詩「蝶を夢む」は、より静かな調べ、母音と子音

    詩の音楽2作品。萩原朔太郎
    ainoutanoehon
    ainoutanoehon 2011/09/06
    高畑耕治の詩のエッセイ。好きな古典の詩歌。 詩の音楽2作品。萩原朔太郎。