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ブックマーク / gordias.hatenadiary.org (3)

  • 「の自由をはばむもの」をが生み出すこと - G★RDIAS

    x0000000000さんの「これは真の「生殖の自由」なんだろうか」↓を受けて考えた。 http://d.hatena.ne.jp/gordias/20071117/1195277074 人が自由になるための社会運動、特に20世紀の解放運動*1は重要だったし、必要だった。*2その極致が多文化主義だろう。お互いの価値の自由を認め合い、共存を目指すものである。しかし、9.11以降、多文化主義は色あせてしまった。 多文化主義とは、穏和な分離主義である。認めあえる範囲で認めあい、認めあえない範囲は踏み込まない。もっとも踏み込めない部分が宗教である。特に、一神教の精神は、多文化主義と真っ向から対立する。一神教は、神が唯一無二であることが基底にある。他の存在と、比較すらできない存在が一神教における神である。多文化主義では、この神を、個人の内面に閉じこめることを求める。しかし、宗教を個人の内面の問題とす

    「の自由をはばむもの」をが生み出すこと - G★RDIAS
    ajyuu
    ajyuu 2007/11/24
  • 「正しく生きたい」ということと、「正しくなくても生きられる」ということ。 - G★RDIAS

    eireneさんが前に取り上げているWeb評論誌コーラに載っている、野崎泰伸「どのように<倫理>は問われるべきか」を読んだ。何度かこのブログでも取り上げたけれど、以下の部分がまだスッキリ納得いかない。 倫理的に「よく生きる」というのは、私たちが通常行うような行為のよし悪しの判断とは次元を異にする。「私はどう生きればよいのか」を問う人は、すでにその人自身の「生の形式」を生きてしまっている。その問いの次元と、「いまここで私は何をなすべきか」という問いとは、区別される必要がある。「いまここで私は何をなすべきか」という問いは、すなわち、現在の状況下での行為の正当性を問題にすることは、現状を「すでに与えられたもの」として不問にしてしまう。さらには、「正当な行為を行うものこそが生きるに値する」という、生に資格や制限を付してしまうのである。こうした混同が、「よく生きる」という主題を、単に「生きてよいのか

    「正しく生きたい」ということと、「正しくなくても生きられる」ということ。 - G★RDIAS
    ajyuu
    ajyuu 2007/08/21
    出来れば「正しく」
  • モテとはひとりの女を大切にすることである - G★RDIAS

    モテ/非モテということが、男子のあいだで話題になっているようだ。これについては、人生の先輩として言いたいことがいろいろあるので、少しだけ書く。 モテは、「ちょいモテおやじ」みたいに、いろんな女にちやほやされて、性的な視線を送られることというふうに理解されることが多いと思うが、そこをコペルニクス的転回しないといけないように思うのである。 そもそも、「いろんな女からちやほやされたい、あわよくば、いろんな女とエッチしたい」という願望は、「権力欲」にほかならない。このような権力欲に裏付けられたモテにこだわっているかぎり、光明はさしてこないだろう。(沼崎一郎はこれを「男力」として批判している)。 そのような観念に絡め取られたうえで発せられる「モテ/非モテ」のパラダイムを、脱出しないといけないのではないのか。 では、コペルニクス的転回後のモテとは、いったい何なのか? 私が思うに、モテる男とは(とりあえ

    モテとはひとりの女を大切にすることである - G★RDIAS
    ajyuu
    ajyuu 2007/07/09
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