https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1140744206 「恵我之荘」は元は「会賀荘」と書いて(えがしょう)と 読んだものです。 平安~鎌倉期に見える河内国丹北郡の内にあった荘園の名です。 更に古くは餌香・恵賀・衛我とも書かれ、餌香川や餌香市として 『日本書紀』にもその地名を見ることができます。 また、 大和王権の仲哀天皇の墓を「恵我長野西陵」、 応神天皇の墓を「恵我藻伏崗陵」、 允恭天皇の墓を「恵我長野北陵」とよんでいます。 これらの伝承陵は、それぞれ藤井寺・古市・土師ノ里駅付近に 所在しています。 こうしたことから、 恵我(会賀)の名は松原市東北部から藤井寺市や 羽曳野市西部・北部までを含む広域地名とみることができます。 このうち、市域恵我地区や羽曳野市恵我之荘地区は、 平安時代には荘園の発達に伴い会賀荘あ