タグ

関連タグで絞り込む (0)

  • 関連タグはありません

タグの絞り込みを解除

考察と表現の自由に関するakasataのブックマーク (2)

  • 「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog

    まず事実として、陵辱ゲームの根底には、社会になお存在する性暴力の非対称性と差別的な意識があるということについて疑うことはできないでしょう。そのことをふまえて想像すれば、たとえば「黒人だけを撃ち殺すゲーム」は当然規制の対象になるでしょうが、「ゲームの黒人は現実の黒人と違うからいいんだ」とか、「オレはリアルでの差別はひかえるけど自然と湧き上がるこの差別感情は否定できないからせめてゲームで差別させてくれ」という理屈が通用するかといえばしないと思います。個人あるいはきわめてクローズドなサークルでやる分にはともかく(規制のしようがない)、少なくとも市場の流通には乗せられない。「黒人差別ゲームがなくなったからといって黒人差別がなくなるわけではない」という意見はある意味ではそのとおりでしょう。しかしやはりゲームは規制されると思います。 難しいのはもちろん、陵辱ゲームにおける性差別的な価値意識は、黒人殺し

    「表現の自由」ではなく「陵辱ゲームの表現の自由」が問題になっているということ - hokusyu’s blog
  • 番外その18:アダルトゲーム自主規制問題とコンピュータ・ソフトウェア倫理機構の問題 - 無名の一知財政策ウォッチャーの独言

    アダルトゲーム自主規制問題については、表現規制を主に取り扱っている「チラシの裏(3週目)」や「表現の数だけ人生がある」等々におまかせするつもりだったが、この問題に関する一連の動きはあまりにも腹立たしく、その影響は表現・情報規制問題全体に及ぶと思うので、ここでも1つエントリを立てて書くことにする。 まず、コンピュータ・ソフトウェア倫理機構(通称、ソフ倫)自体、映倫やビデ倫と同じく、自主規制団体に過ぎないということと、今回の問題が、いつもの「児童ポルノ」とはまた別の「性暴力」と称する曖昧な規制派の概念から来ているということは、前提としてはっきり認識しておく必要がある。(各都道府県における有害図書指定との関係や、このような自主規制団体が、一般流通のほぼ全てを握っているということが、そもそも問題だと思うが、自主規制そのものの問題は、そのうち別途書くこととして、ここではひとまずおいておく。) 一連の

    番外その18:アダルトゲーム自主規制問題とコンピュータ・ソフトウェア倫理機構の問題 - 無名の一知財政策ウォッチャーの独言
  • 1