印刷 島尾敏雄とミホ夫人=1972年8月、鹿児島県奄美市、島尾伸三さん撮影島尾敏雄がミホ夫人のために書いた血判状(かごしま近代文学館所蔵)ミホ夫人がバラバラにしたとみられる島尾敏雄の日記(かごしま近代文学館所蔵) 「この日記はぼくの羅針盤だ」(1973年12月)――夫婦の極限の愛を描き、戦後を代表する小説の一つとされる「死の棘(とげ)」で知られる作家島尾敏雄(1917〜86)が、12歳のときから69歳で亡くなる3日前まで57年間書きつづけた膨大な日記の全容が明らかになった。鹿児島市が遺族から購入した。島尾は日記をもとに小説を書いたが、その独特の手法の秘密を探るうえで第一級の資料だ。 日記は30年の元旦から始まり、86年11月9日に「雨模様の日也(なり) 寒くはない」で終わるまで約100冊ある。夢を見ると、懐中電灯をつけて書きとめたほどの記録魔だった。 島尾は44年、特攻艇部隊の隊長と