2023年8月1日のブックマーク (2件)

  • 谷口稜曄 - Wikipedia

    被爆により大やけどを負った谷口稜曄を撮影した報道写真(1946年1月撮影) 1929年(昭和4年)1月26日、福岡県糟屋郡志賀島村で谷口家の三人目の子供として生まれる。「光が届かない場所を隅々まで照らす」という意味を込めて、稜曄と名付けられた[1]。翌年母が亡くなり、父は一人満州に渡り南満州鉄道(満鉄)に就職。稜曄を含む三人の子供は長崎市の母方の実家に預けられる[3]。 1943年(昭和18年)、淵国民学校(高等科)を卒業し、博多郵便局で働き始める[2]。 1945年(昭和20年)8月9日、16歳のとき自転車に乗って郵便物を配達中、爆心地から1.8km地点の長崎市東北郷(現:長崎市住吉町)で被爆[4][5]。原爆の爆風で自転車は大破し、激しい熱線により背中と左腕に大火傷を負う[6]。そのまま徒歩で200mほど先の三菱重工長崎兵器製作所住吉トンネル工場へ避難し、機械油で体を拭いてもらうなど

  • バービーの件に関してどうしても語らなければならない諸々の事

    例の件に関して、当事者でもなければ長崎の生まれでも広島の生まれでもない人間がどうこう、という書き込みを目にして、少し自覚したのでどうしても言わねばならないことを言う。 俺は長崎の生まれで被爆三世で当事者たちから直接話を聞かされて育ったから言う。 俺程度がおこがましいという気持ちはあるけれど、当事者はほとんど残っていないから俺が言う。 長崎ではガキどもは原爆の話を聞かされて育つ。クーラーどころか扇風機もない真夏の小学校の体育館に一時間近くも寿司詰めにされて、原爆の話を聞かされた。俺はとにかくそれが辛かった。 話をする年寄りはもっと辛かったと思うが、小学生のガキにはそんな想像ができるはずもないし、俺だってずいぶん聞かされた話をほとんど忘れてしまった。思い出せるのは精々ひとつかふたつだ。 もうひとう、この時期になると廊下にはずらりと、他所の地域ならPTAが発狂するようなグロ画像が堂々と貼り出され

    バービーの件に関してどうしても語らなければならない諸々の事