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福山市に関するaniyan53のブックマーク (12)

  • 広島県の文化財 - 猪ノ子古墳 - 広島県教育委員会

    【解説】 芦田川中流域の古墳のなかでは,谷奥の傾斜地に立地する。江木神社の南西端に,直径14m,高さ3mの円墳であるが,墳丘の形態・規模とも原形をとどめていない。内部主体は横口式石槨の前に羨道をとりつけた終末期のもので,石槨(せっかく)の長さ約2.8m,幅約1.1m,高さ0.95mで5枚の花岡岩の切石で組合せ,羨道(せんどう)部は長さ約3.8m,幅1.7m,高さ1.25mで,両側壁1枚,天井石2枚からなる。石と石の間隙には漆喰をつめた痕跡がある。7世紀代の古墳と考えられる。横口式石槨を内部主体とする古墳は,飛鳥地方を中心に分布しており,これからみると畿内地方との密接な関連を想定させる。 名称

    広島県の文化財 - 猪ノ子古墳 - 広島県教育委員会
    aniyan53
    aniyan53 2017/03/07
    “福山市加茂町”
  • 猫寄せの久良やんはかく語りき! 墓暴きの顛末と言い訳 (1) - 備後「あこう浪士」  釣り場の周辺

    (前編)吉備の歴史が変わる!中国地方最大の飛鳥時代の王墓墳「猪ノ子古墳」。 はじめてお目にかかります、久良(くら)でございます。このブログを楽しみに読まれている方々に、あこう浪士さまのブログジャックをしましたことを、心より深くお詫びする次第でございます。 浪士さまの強力なご推奨をいただき、私が主張しております「飛鳥時代・吉備福山中枢説」を掲載させていただくことになりました。そのようなことには興味がない、とおっしゃるかたも多いのではないかと存じますが、ご容赦頂きますようお願いする次第でございます。 浪士さまに墓暴きと揶揄された私が、福山市教育委員会に古墳調査を働きかけた目的は「壊れかけている広島県史跡・猪ノ子古墳(いのここふん)の修復と復元。飛鳥時代の中四国・吉備の中枢は福山地域である、ことをより確実にすること。」にありました。 しかし、備後が吉備の国であり吉備後国(きびしりのくに)から変じ

    猫寄せの久良やんはかく語りき! 墓暴きの顛末と言い訳 (1) - 備後「あこう浪士」  釣り場の周辺
    aniyan53
    aniyan53 2017/03/07
    “「壊れかけている広島県史跡・猪ノ子古墳(いのここふん)の修復と復元。飛鳥時代の中四国・吉備の中枢は福山地域である、ことをより確実にすること。」”
  • 備陽史探訪の会

    Sera2024年1月30日 1月27日【記念講演会】-備中・備後-国境の武士たち 開催 はコメントを受け付けていません2024-01-30T18:06:31+09:00

    備陽史探訪の会
  • 福山市のウォーキングマップを活用しましょう!

    aniyan53
    aniyan53 2015/01/24
    探索(徘徊?)の参考になるかも? PDF
  • ぬまくま文化財マップ - Google マイマップ

    aniyan53
    aniyan53 2014/10/30
    “ぬまくま文化財マップ”
  • 『西国街道 神辺宿~広島県福山市神辺町』

    大根役者日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に 備後、備中、備前の西国街道は所用で訪れた時に歩くことにしている。2月に高屋宿を歩いた。今回は高屋宿から西へ向かう次の宿場神辺宿を歩いた。途中の街道を歩いていないのだが、神辺宿の東側から歩いてみた。 神辺宿は高屋宿と今津宿の間の宿として栄えた。神辺は江戸時代初期に福山城ができるまでは城下町だった。天正12年(1584)から神辺城は毛利氏の支配するところとなり、同19年(1591)頃に毛利輝元は元就の子元康を神辺城主として入城させた。毛利氏移封の後は福島正則の家老福島正澄が3万石の領主として神辺に入った。元和5年(1619)水野勝成が備後10万石の領主として入国すると城下町は神辺から福山へと移った。神辺宿は江戸時代の初めは福山藩領であったが、元禄11年(1698)

    『西国街道 神辺宿~広島県福山市神辺町』
    aniyan53
    aniyan53 2014/08/10
    荒神社、胡神社の境内、1910年創業の天寶一 辛口でうまい酒、谷口製菓 茶山饅頭
  • 『天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)~広島県福山市神辺町川北』

    大根役者日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に 神辺の街並みを歩くにはこの神社から始めなければならない。国道313号線を岡山方面からから西へ進み、神辺に入ると左側に鳥居が見えてくる。天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)だ。 国道を渡り、参道に戻り、再び、神社に向かう。 天別豊姫神社は式内社であり、近代社格制度では縣社である。創立年代は不明だが、上古、現在の福山市の神辺町・駅家町・新市町辺りまでは入江となっており、穴の海と呼ばれていた。伝承によると、現在の鎮座地である吉野山の東麓、網付谷というところの荒磯岩上に斎祀されていた。漁民が豊漁を願って海神である豊玉姫命を祭ったのではないかといわれている。 崇神天皇の御宇、神戸(かんべ)が定められた時、この地を神戸として、社の神地とされた。建武二年(1335)浅

    『天別豊姫神社(あまわけとよひめじんじゃ)~広島県福山市神辺町川北』
  • 『備後安国寺~広島県福山市鞆町後地』

    大根役者日常と街道の旅を続けています。ガスリーのHobo's LullabyとアズナブールのLe cabotin(大根役者)を友に 南北朝動乱の戦死者を弔うために、足利尊氏・直義兄弟は国ごとに安国寺・利生塔を建立した。1748年にまとめられた鞆通史に「暦応2年(1339)に尊氏が備後安国寺を建立した」と記載されている。備後安国寺は元々は無覚心(法燈国師)を開山として、文永十年(1273)に釈迦堂を建立し、翌年に阿弥陀三尊像が納められた『金宝寺』が前身である。従来の寺院を安国寺とした例は他の地方にも見られる。 備後安国寺は鎌倉時代から続く古刹である。室町時代末期に衰退したが、毛利輝元、安国寺恵瓊により、再興された。しかし、輝元移封により再び衰退し、江戸初期には京都妙心寺末寺となり、塔頭九ヶ寺の輪番により、維持された。大正九年(1920)に法堂が焼失した。その後、昭和初期に釈迦堂が修復され、

    『備後安国寺~広島県福山市鞆町後地』
    aniyan53
    aniyan53 2014/08/09
    軍師くわんぴょうえ 関連
  • 福山の猫カフェ COMMUNE(こみゅーん)

  • 龍頭の滝         福山市山野町   「山野峡」

    暑い日がつづく、滝に行ってひんやり気分を味わおう。 どこの滝に行くかな? 新見の井倉洞は遠いし、 井原の道祖渓や鳴滝渓はしょっちゅう行ってるしなあ。 道が狭いのが難点だが数年ぶりに「山野峡」に行くことにした。 ただし、更に道が狭くなるキャンプ場・猿鳴峡には行かない。(ついでながら、猿鳴峡への県道は崖崩れで通行止めだった) 龍頭の滝の駐車場に着いた。 駐車場は工事用の大型車両とトラック、それにその仕事で来た様子の乗用車が一台ある。 つまり 滝見物の人は、えいちゃん以外誰も来てないようだ。 それに写真でも、いくらかわかるが駐車場の舗装の上には青苔が育っている。 一年で、一番滝見物の観光客やハイキングの人が多いであろう夏休みの猛暑日がこれでは・・・・・ あの名瀑「竜頭の滝」は、観光地としての役目を終えたのだろうか? そう思いながら滝の入口まで行った。 周囲の緑や川音、すべてが心地よい自然だった。

    龍頭の滝         福山市山野町   「山野峡」
    aniyan53
    aniyan53 2014/08/03
    龍頭の滝 福山市山野町   「山野峡」
  • 何かへんじゃ(ブログ)

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    aniyan53 2014/05/01
    福山城付近の昔の地図
  • がらくたのホームページ

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    aniyan53 2014/03/12
    神辺あたりの史跡
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