バナナと日本人―フィリピン農園と食卓のあいだ [著]鶴見良行[掲載]週刊朝日2008年10月31日号[評者]永江朗■朝バナナは誰がつくっているのか? ある日、スーパーに行ったらバナナが売り切れていた。他のスーパーや八百屋も覗いてみたが、どこにもなかった。数日後、バナナ・ダイエットというものが流行っていて、やせたい人がバナナに殺到していると知った。 アホらしくて笑う気にもなれない。「あるある大事典」事件のとき、フード・ファディズム──特定の食品が健康に良い/悪いなどといって狂騒すること──があれほど批判されたのに。まったく懲りないというかなんというか。こうなると、好きで騙されているとしか思えない。 ふつうに食べて、ふつうにからだを動かしていれば、太りすぎることはない。太るのは食べすぎか運動不足かどこか悪いからで、バナナに頼っても解決しない。もちろんバナナはおいしいし、私も大好きだけど(あらゆ
今から5年前の2001年9月11日、TV映像を通じて、私たちは信じがたい光景を目にした。 情報が錯綜し、複数メディアで誤報もあった。人もあらゆるシステムも、思考停止に近い状況に陥った。翌日には「戦争」というレトリックが用いられ、数日間はヒステリックなほどに米国同時多発テロ関連の情報が報道されつづけてきた。 この混乱にあって、ワールドトレードセンターで亡くなった方の遺族も含め、極めて冷徹に事実関係を整理し「報復」に警告を発しつづけた人たちもいた。発信元の多くはマスメディアでのインタビューであり、webであり、リアルなコミュニティではあったが、それでも根気よく、彼らはプロパガンダに与することをよしとしない意志を表明しつづけた。 翌月、そのひとりで言語学者であり思想家でもあるノーム・チョムスキーのインタビュー集『9−11』 (Noam Chomsky,Seven Stories Press)が米
■「おくれ」を共に生きる視点 「わが子ノア」など家族の体験記は別として、治療・訓練・高機能という言葉が並ぶ本については、該当児の親として心揺らしながら読んでは、しっくりしない思いを重ねてきた。この本で、村瀬学(むらせ・まなぶ)・同志社女子大教授の「自閉症研究者の尺度で見過ぎず、この生のあり方を理解・共感すること」という主張を読んで、視界が一段階、開けた思いだ。 「認知症も統合失調症もそうですが、自閉症は、みんなが同じ方向に進んでいく文明についていけず、『おくれ』を生きている姿です。それを診断するわけですが、その尺度は『社会に通用するかどうか』。これでは、『おくれ』を生きる人たちが持つ豊かさは、はかれません」 小5のKちゃんが毎日曜日、京阪神圏の電車を「独りで乗り継いで大旅行をしていた」話が紹介されている。「同行してみたら、大人でもようやらん、想像を絶する旅でした。テキストや検査用紙では測定
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