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自己啓発と将棋に関するargameのブックマーク (8)

  • 「兄貴はバカだから東大に行った」の真意とは 愛弟子・中村太地七段だからこそ知る“師匠・米長邦雄”【命日】(中村太地)

    NumberWebでは将棋の“競技的”な側面を中心に、王座獲得経験のある中村太地七段に将棋の奥深さについて定期的に語ってもらっている。今回は米長邦雄永世棋聖の命日にちなんで「将棋の師弟関係」について語ってもらった(全2回の後編/前編はこちら) 私の師匠は将棋ファンだけでなく、世間でもよく知られている棋士の1人かと思いますが……「うちの兄貴たちはバカだから東大に行った。私は天才だから棋士になった」との発言があったとの逸話が、あまりにも有名ですよね(笑)。ただこれもまた、師匠が深いところで考えていた一つの象徴なのかなと思っています。 このことについては後ほど説明しますが、私が実際に感じた「米長邦雄永世棋聖」という人間性について、お話しできればと思います。 まずは師匠である米長永世棋聖と出会うきっかけから。 私が奨励会入りを決断したのが小学校6年生の春でしたが、両親が師匠のをよく読んでいたんで

    「兄貴はバカだから東大に行った」の真意とは 愛弟子・中村太地七段だからこそ知る“師匠・米長邦雄”【命日】(中村太地)
    argame
    argame 2020/12/19
    亡くなった後もちょいちょい話題に上る存在感はさすが我が名付け親、米長邦雄永世棋聖。故に私は進取の精神、学の独立の体現。私は天才だから早実から早稲田へ行かなかった。…のかなぁ?w
  • 河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと|yomoyomo

    I couldn't ever bring myself to hate you as I'd like (Stone Roses, "I Am the Resurrection") 早いもので、将棋界の語り部、河口俊彦七段(死後、八段追贈)が亡くなって五年が経った。 河口俊彦老師の代表作である『大山康晴の晩節』ちくま文庫版の解説を書いた縁で、その刊行直前の2013年12月の夜に老師の話を伺う機会に恵まれた。老師が亡くなるおよそ一年前になる。 『大山康晴の晩節』の担当者である筑摩書房の伊藤さんの計らいで老師とお目にかかるのが決まったはいいが、その日が近づいてくると自分だけでは心許ないと怖気づき、ピースオブケイクの加藤貞顕さんにお声がけさせてもらった。 加藤貞顕さんというと、今では「2000万人が集う“開かれた表現の街”の立役者」として知られるが、この2013年には名人戦第一局の観戦記者も務

    河口俊彦老師に伺った米長邦雄永世棋聖のこと|yomoyomo
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    argame 2020/07/16
    “有事のリーダー”“十指に入る大天才”“とにかく相手をただ良い気持ちにはしない”“兄達は頭が悪いから東大へ”“美しき敗者”“現実の世界線よりも数倍破壊的”我が天邪鬼のルーツここに在り
  • 最年少17歳、最年長66歳でタイトル戦に挑戦した棋士、わかりますか?七大タイトルの最年少&最年長記録まとめ|将棋コラム|日本将棋連盟

    将棋連盟TOP 将棋コラム 最年少17歳、最年長66歳でタイトル戦に挑戦した棋士、わかりますか?七大タイトルの最年少&最年長記録まとめ 藤井聡太四段の最年少でのプロデビューや、加藤一二三九段の最年長対局記録の更新で、将棋界の最年少・最年長の話題が賑わっています。では、タイトル挑戦・タイトル獲得の最年少・最年長記録はどうなのでしょうか? このコラムでは、タイトル挑戦・タイトル獲得の最年少・最年長記録をお伝えしていきます。 史上最年少タイトル挑戦&タイトル獲得 撮影:常盤 史上最年少のタイトル挑戦は第55期(1989年度後期)棋聖戦で、中原誠棋聖(当時)に屋敷伸之四段(当時)が挑んでいます。屋敷四段は17歳10カ月でのタイトル挑戦となりましたが、五番勝負では2勝3敗で敗れ、惜しくもタイトル獲得は逃しています。 史上最年少のタイトル獲得はなんとその翌年度、第56期(1990年度前期)棋聖戦で

    最年少17歳、最年長66歳でタイトル戦に挑戦した棋士、わかりますか?七大タイトルの最年少&最年長記録まとめ|将棋コラム|日本将棋連盟
  • 藤井聡太七段、最年少タイトル獲得!30年ぶりに記録更新 初の「17歳タイトルホルダー」に/将棋・棋聖戦五番勝負(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース

    藤井聡太七段、最年少タイトル獲得!30年ぶりに記録更新 初の「17歳タイトルホルダー」に/将棋・棋聖戦五番勝負(ABEMA TIMES) - Yahoo!ニュース
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    argame 2020/07/16
    最年長名人獲得記録を持つ我が名付け親米長邦雄永世棋聖とは対照的だwいずれ肩書でも並ぶ日も近いだろうか
  • 米長玉 - Wikipedia

    米長玉(よねながぎょく)は、将棋用語の一つ。米長邦雄永世棋聖が多用したことからその名が付いた。米長はこれにより、のち2000年(1999年度)の将棋大賞で升田幸三賞を受賞している。 概要[編集] 米長玉と呼ばれている形は、固定的な戦法や囲い方というものではなく、終盤の一手争いにおいて、玉将を香車の上に早逃げすることにより手数を稼いだり、駒の入手によって相手玉への詰めろが生じることなどによる逆転を目的とするものである。 この早逃げにより、自玉がいわゆる「ゼット」の状態(絶対に詰まない状態)になることが非常に多く、弟子の先崎学は「今でこそ『ゼット』の感覚は棋士にとって常識となっているが、(米長が活躍した)当時には無かった感覚である。だからあれだけ勝てたのだ」という趣旨の発言をしている。 後年の米長によれば、着想のきっかけは振り飛車の名手、大山康晴との玉頭位取り戦。▲7五歩と位を取った上で、玉を

  • 幸福三説 - Wikipedia

    幸福三説(こうふくさんせつ)は、明治の文豪、幸田露伴が自著『努力論』で主張したもので、「惜福」「分福」「植福」の三つからなる[1]。 「惜福」とは、自らに与えられた福を、取り尽くし、使い尽くしてしまわずに、天に預けておく、ということ。その心掛けが、再度運にめぐり合う確率を高くする、と説かれる。露伴は「幸福に遇う人を観ると、多くは「惜福」の工夫のある人であって、然らざる否運の人を観ると、十の八、九までは少しも惜福の工夫のない人である。福を取り尽くしてしまわぬが惜福であり、また使い尽くしてしまわぬが惜福である。惜福の工夫を積んでいる人が、不思議にまた福に遇うものであり、惜福の工夫に欠けて居る人が不思議に福に遇わぬものであることは、面白い世間の現象である」と述べている[1]。 「分福」とは、幸福を人に分け与えること。自分ひとりの幸福はありえない、周囲を幸福にすることが、自らの幸福につながる、と説

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    argame 2015/07/10
    “惜福”米長先生の掛け軸
  • さわやか流!「40歳から」自分を変えた名人への挑戦

    将棋連盟会長・永世棋聖 米長邦雄●1943年山梨県生まれ。85年永世棋聖。40歳を過ぎたころ、徹底的に自分のやり方を改め、50歳目前で宿敵・中原誠を打ち破り、名人位に。その人格、棋風は「さわやか流」と呼ばれる。 「変える必要もないし、変えられない、あるいは変えるのが億劫だということになったら、そのときは僕が引退するときだ。変えられる間はまだまだ頑張れる」 これは、羽生善治さんとの対談で私がお話をさせてもらった言葉です。私はそれぐらい必死の心構えで自分を変えてきたつもりです。 私が50歳を間近にして、名人位を獲得できたのは、40歳というすでに若くない段階から「変化」を試みたことへの神様からのご褒美だったと思っています。 人間は「変化」できなくなったらもう終わりです。私自身、「変化できなくなったら引退しよう」と心を決めており、また実際にそうしました。 人は日々成長します。10歳のときよりは

    さわやか流!「40歳から」自分を変えた名人への挑戦
  • 羽生善治「若手に負けぬための秘密の習慣」:PRESIDENT Online - プレジデント

    衝撃の7大タイトル全制覇からすでに18年、変わらぬ強さで、棋界の「顔」であり続ける43歳。その天才が「この先、重要視される能力」を磨くべく心がける、一見ありふれた習慣とは──? 「こうすればうまくいかない」と知っている 勉強といっても、私たち棋士にとっては、実戦の中から得るものがやはり大きいですね。新しいアイデアや発想のヒントを実戦から得て、それを日常の練習の中で掘り下げ、全体的な理解を深めていきます。 着手を考える際も、40代半ばの今は、20代、30代の頃とは変わってきました。最初に局面全体の方向性を大ざっぱに、感覚的にとらえて、そこから細かいところをロジックで詰めていくというプロセスじたいは以前とあまり変わりませんが、局面全体をとらえるところに力を傾ける比率が、以前に比べて上がっています。 最初から細かいところにこだわって理詰めで追っていくと、効率が悪い。指し手を読んでいって、この筋は

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